2021年1月10日 主の洗礼 B年
(イザヤ55・1-11)、(Ⅰヨハネ5・1-9)、(マルコ1・7-11)
主の洗礼と聖霊による洗礼
洗礼者ヨハネは人々に言いました。「私よりも優れた方が、後から来られる。私は、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。私は水で洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」(マルコ1・7-8)。また言いました。「水で洗礼を授けるために私をお遣わしになった方が、『“霊”が降って、或る人に留まるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』と私に言われた」と(ヨハネ1・33)。
その洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けたとき、イエスは、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、“霊”が鳩のように御自分に降って来るのをご覧になりました。洗礼者ヨハネもそれを目撃しました。つまり、イエスは“水による悔い改めの洗礼”を受けられましたが、水から上がられたときに、御自分の人性に聖霊が降ったのです。続いて御父は言われました。「あなたは私の愛する子、私の心に適う者。」
こうして、イエスこそが「聖霊で洗礼を授ける」方であることが、天の御父御自身によって確認されました。ですから、私たちは、洗礼の秘跡を受けたとき、確かに「聖霊で洗礼を授けられたのです。」しかし残念なことに、故スーネンス枢機卿が言われたように、大多数の私たちの中で、聖霊が凍り付いている状態にされていて、働けないのです。この状態から解放されるために、私たちは自分の持ち分を果たさねばなりませんと、バチカンの説教師であるカンタラメッサ師は言われました。
「① 罪を自覚しているのなら、その赦しを願うこと、② 神の教えに従って生きようと望み、その第一歩を踏み出すこと。例えば、或る人が幼児洗礼を受け、その後も信仰の深まりがないまま大人になった場合、聖霊はいわば凍りついている状態にあります。この場合、神がお求めになるのは、上記の①と②を実践したいと心から望んで、そのように生きさせて下さいと主に願うなら、聖霊は力強く働き始めて、無制限に神の業をなさるのです。それはちょうどプラグがコンセントにつながって、電灯が灯るようなものです。神の賜物が究極的に『無制限』になり、キリスト者の生活の中で力強く発揮されることを、聖霊が許されるのです」と。
敗戦後の西ドイツの復興に目覚ましく貢献した、アデナウアー首相がそのよい実例です。18歳の頃、「カトリックの信仰を捨てようか」と考えたとき、「捨てる前にこの信仰が素晴らしいかどうかを試してみよう」と考えて、実際に信仰を生き始め、どんなに素晴らしいかを体験したので、生涯、この信仰を大切に生き抜きました。こうして、首相となった彼は、神に助けられ、神に導かれてドイツの復興に素晴らしく貢献しました。
主の洗礼のお蔭で、キリスト者にこのような無制限の恵みが準備されています。この恵みが私たち一人ひとりの中で実現しますように。
天の父よ、『自分の持ち分を果たすこと』が、どんなに重要であるかを私たちに悟らせて下さい。