2021年4月11日 復活節第2主日 B年
(使徒4・32-35)、(Ⅰヨハネ5・1-6)、(ヨハネ20・19-31)
神の慈しみの主日
今日は復活節第二主日で、神の慈しみを喜び祝う日です。主は、今日の福音の中で三度も、「あなたがたに平和があるように」と言われました。主が言われる「平和」とは、神の御子が、聖霊において御父との愛による一致と交わりを限りない喜びのうちに生きておられることです。御父と御子の聖霊における一致と交わり、そしてそこから生じる限りない喜びに、キリストの兄弟・姉妹とされた私たちも与らせていただくのです。この状態こそ、「あなたがたに平和があるように」と、主が言われるものです。
その平和は、神の慈しみに信頼して、主イエスの慈しみの泉に近づく時にのみ与えられます。「人類は、私の慈しみの泉に向かわない限り、平和を見出さない」(No.699)と、主が言われるからです。この真理を全人類に伝えるために、主はシスターファウスティナを選び、神の慈しみの使徒とされました。以下、その啓示です。
神の慈しみの御絵をご覧下さい。これについて主は言われました。「私の慈しみの泉から恵みを汲むようにと柄杓(ひしゃく)を差し出している。それは、『イエス、あなたに信頼します』と書かれた私の絵である」(No.327)。そして、絵の意味を説明して言われました。
「この二つの光線は血と水を意味する。青白い光線は霊魂を義とする水を表し、赤い光線は霊魂の命〔神の命〕である血を表す…。この二つの光線は、苦しみ悶(もだ)えていた私の心が十字架上で槍によって開かれたとき、私の慈しみの内臓(はらわた)から流れ出た(ヨハネ19・34参照)。この二つの光線が御父の〔正義の〕怒りから霊魂を守る。この避難所に住む者は幸いだ。なぜなら、神の正義の御手はその人に及ばないからである。私は、復活祭後の最初の主日が慈しみの祝日となることを望む」(No.299)。【注 《慈しみの泉》については(『日記』、84参照)。】
どんなに重い罪があっても少しも恐れることはないと、主は次のように断言されます。「哀れな罪人であればあるほど、私の慈しみを受ける権利は増すのである」(No.723)。「弱くて、罪深い霊魂であり、その罪がこの世の砂粒より多くても、私に近づくことを恐れてはならない」(No.1059)。「最も重い罪を犯した者でも、私の慈しみに信頼しさえすれば、偉大な聖性に達する」(No.1784)。
今日の福音で、イエスはトマスに、「私を見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました。トマスの場合、「復活された主の手の釘跡や脇腹の傷跡に私の指や手を入れなければ、信じない」と言ったのですが、主は「見ないで、信じる人は幸いだ」と言われました。主の復活を信じ、同時に主の慈しみの御絵を見ながら、「イエス、あなたに信頼します」と心から宣言しましょう。
天の父よ、「人類は、私の慈しみの泉に向かわない限り、平和を見出さない」(No.699)と言われた、あなたの御子イエスの御言葉に、私たちが真剣に聞き従うよう、お助けください。