2021年3月14日 四旬節第4主日 B年
(Ⅱ歴代史36・14-23)、(エフェソ2・4-10)、(ヨハネ3・14-21)
善い業を行って(福音を行って)歩む
ニコデモとの対話の中で、主は言われました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と。「モーセが荒れ野で蛇を上げた」とは、次のような出来事でした。昔、イスラエルの民がモーセに率いられて、エジプトを脱出し、紅海を渡って荒れ野に入ったとき、彼らは神とモーセを非難して言いました。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか。パンも水もなく、こんな粗末な食物〔マンナ〕では、気力も失せてしまいます。」神とモーセを非難した民に、神は毒蛇を送られたので、民の中から多くの死者が出ました。〔この蛇に噛まれると、毒に打たれて高熱を発し、体が燃えるように感じながら死んでいったので、炎の蛇と呼ばれました。〕大勢の同胞が死んでいくのを見て、民はモーセに言いました。「私たちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、私たちから蛇を取り除いてください。」モーセが民のために祈ると、主は言われました。「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇に噛まれた者がそれを見上げれば、命を得る。」モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇が人を噛んでも、噛まれた人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得ました(民数紀21・4-9参照)。
焔の蛇に噛まれて死にそうになって青銅の蛇を見上げたとき、その人は何を感じたでしょうか。「私は神とモーセを非難したために蛇に噛まれ、今死にそうだ。しかし神は、『青銅の蛇を見上げれば、命を得る』と言われた。私は見上げた。だから、命を得る。」
主は言われました。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と。十字架上の主を仰ぎ見るとき、私は何を考え、何を主に申し上げるはずでしょうか?「主よ、私は不信心の罪という毒に打たれて、永遠に滅んでしまう状態に陥っていました(ロマ1・18~3・20参照)。その私に代わって、あなたが呪われた者となって下さいました(ガラ3・13参照)。信仰の目をもって十字架上のあなたを仰ぎ見るとき、永遠の滅びを免れるだけでなく、あなたの命を戴いて、天の御父の子・あなたの兄弟姉妹・聖霊の神殿となり、天の国で永遠に生きる者として下さいます。何という大きなお恵みでしょうか。この恵みにどのように応えたらいいのでしょうか。」
今日の第二朗読で使徒パウロが答えて言います。「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。…私達は、神が前もって準備して下さった善い業のためにキリスト・イエスにおいて造られました。私達は、その善い業を行って歩むのです。」〔つまり、神の御子が言葉と行いで教えて下さったこと・福音を行って歩むのです。〕
天の父よ、私達も生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬことができるよう助けて下さい。そして、生きるにしても死ぬにしても、完全に主のものとなれますように(ロマ14・8参照)。