2021年3月21日 四旬節第5主日 B年
(エレミヤ31・31-34)、(ヘブライ5・7-9)、(ヨハネ12・20-33)
キリストの御受難と神の愛
数人のギリシア人が「イエスにお会いしたい」と願ったとき、主は答えて言われました。それは御自分の死と弟子の心構えに関するものでした。その御言葉を黙想しましょう。先ず御自分を一粒の麦にたとえて言われました。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と。キリストという一粒の麦が地に落ちて死ぬと、どんな実を結ぶでしょうか。主を信じるすべての人が、主キリストの生きておられる命、神の命を受けて、神の子とされ、永遠に生きます! 何と豊な実を結ぶことでしょうか!
続いて私たちに呼びかけられます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と。「自分の命」とは地上における人間の命のことで、これを神への愛以上に大切にする(愛する)なら、それを失い、神への愛を第一にして自分の命を後回しにする(憎む)なら、それを保って永遠の命に至ると。【「憎む」という表現については、(ルカ14・25参照)】
人がキリストを愛して、地に落ちて死ぬ一粒の麦となられる主の御足跡に従うなら、「天の御父はその人を大切にして、私のいるところに、その人も一緒にいるようになさる」と、主は断言されました。こう断言される主は、御受難と御死去が言語に絶する苦しみ、身体的・精神的な苦しみであることをよくよくご存知でしたので、「今、私は心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、私をこの時から救ってください』と言おうか。しかし、私はまさにこの時のために来たのだ」と言って、御父に祈られました。「父よ、御名の栄光を現してください。」ここで言われる「御名の栄光」とは、御父御自身の愛、特に私たち人間に対する愛です。その愛を現してくださいと祈られました。
御父はこれに答えて言われました。「私は既にすべての人に対する愛を現した。再びその愛を現そう。」そしてキリストが十字架上で命を献げてくださったとき、御父も聖霊も御自分の愛を現わされました。十字架上でキリスト一人だけが釘付けられたのではなく、御父も霊的に御子と共に釘付けられ、聖霊も神の愛を注ぎつつキリストの心に留まって、その身体的・精神的苦しみを分かち合われたのです。このようにして、三位一体の神が私たちに対する愛を現されました。だからこそ、主は言われました。「この声が聞こえたのは、私のためではなく、あなたがたのためだ」と。
今日の福音の最後のところで主は言われます。「私は地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとに引き寄せよう。」「地上から上げられるとき」とは、十字架の上に上げられるときでもあり、復活後、昇天して父の右の座に着いておられるときでもあります。それで、世の終わりまで、主は文字通り「すべての人」を御自分のもとに引き寄せるために、全世界の一人ひとりに働きかけておられます。大罪の内にいた人が、臨終の瞬間であろうと、キリストの慈しみに満ちた働きかけに応えるなら、必ず救われます! 【キリストのこの働きかけについて、(ルカ23・40-43)& 聖ファウスティナの『日記』No.1486参照】
天の父よ、あなたの御独り子がこれほどまで私たちの救いのために働き続けてくださることを心から感謝します。その愛にふさわしく応えることができますように!