2022年8月14日 年間第20主日 C年
(エレミヤ38・4-10)、(ヘブライ12・1-4)、(ルカ12・49-53)
聖霊とキリストの似姿
今日の福音で主は三つのことを語られました。第一、「私が来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(49節)。主が地上に投げ込まれる火とは聖霊という火です。第二、「私には受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、私はどんなに苦しむことか」(50節)。主が受けねばならない洗礼とは、十字架上の死という血の洗礼。第三、各々の家庭における分裂と対立。即ち、聖霊を受けて神の子とされた者が万事において神の御心に適うことを行いたいと望むのに反して、その恵みを受けていない古き人のままである残りの者が、人間的な考えを以て神の御心に敵対するのです(52~53節)。
さて第一の問題に立ち帰りましょう。真理と愛の霊であり、御父と御子の霊である聖霊は、私達を聖なる者、キリストの似姿にしようとして働いて下さる霊的な火です。キリストは、この火が私達の心の中で、そして地上全体で「既に燃えていたらと強く願っておられます。」
私達がキリストの似姿に造りかえられることについて、聖書は次のように譬えています。「神の住まいを建てるために、人は先ず土地を深く掘り下げて、堅固な土台を据えなければなりません。それは、『イエス・キリストであり、既に据えられているこの土台を無視して、誰もほかの土台を据えることは出来ません』(Ⅰコリ3・11)。次いで建物の後方の壁のために最初の石を置きます。謙遜という石です。同じように前方の壁のために信仰という最初の石を置きます。そして次々といろいろな石を積み上げ、セメントで継ぎ合わせ、最後にすべてを一つにまとめる愛という石を積んで完成します。この途中の様々の石は、平和と喜び、寛容と親切、善意と誠実、柔和と節制など、キリスト御自身の諸徳です。こうして出来上がった神殿に、キリストの聖性という文字が金で書き記されます」(コロサイ3・12-17参照)。
私達は洗礼によって 復活して永遠に生きておられるキリストに結ばれ、聖霊に導かれて上記の神殿に住みつつ謙遜・信仰・愛と共にキリストの諸徳を体現していく筈なのです。
マザーテレサは、以上の神殿の譬えを要約して、こう言われました。「私達は聖なる者にならねばなりません。聖性は限られた人の特権ではありません。私達互いの間で、簡単に出来ることです。聖であるとは、神様に私達の中で生きて頂き、神様がお喜びになることをすることです。」【注 ここで言われている神様とは、主イエス・キリストです。】
天の父よ、人となられたあなたの御子キリストと私達一人ひとりが愛によって一致し、『瓜二つ』の者となれるよう助けて下さい。