2022年8月21日 年間第21主日 C年
(イザヤ66・18-21)、(ヘブライ12・5-13)、(ルカ13・22-30)
狭い戸口から入る
主は今日の福音で「狭い戸口から入るように努めなさい」と言われました。また、他の箇所で「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7・13-14)と言われました。これらの御言葉の意味を理解するための重要な鍵を聖フランシスコが差し出しています。
アシジの聖フランシスコは言います。「堕落した人間本性にとって罪を犯すことは甘美で、神の照らしと導きに従ってキリストのように神を愛し、人々を愛して生きることは辛いことなのです」(小品集75頁参照)。≪堕落した人間本性≫、これが鍵言葉です。ですから、神を愛し、隣人を愛して生きるために、堕落した人間本性に力ずくで激しく抵抗しなければなりません。言い換えると、「天におられる父の御心を行なう者だけが天の国に入る」(マタイ7・21)のですが、その御心を行なうためには、罪を犯すことを甘美だと感じる人間本性の望みに、断固として『ノー』と言わねばならないのです。「狭い戸口から入る」とは、この事実を指しています。
だからこそ、主は聖ファウスティナを通して次の私的啓示を与えられました。「ある日、私は二つの道を見ました。一方の道は〔堕落した人間本性にとって〕広々としていて、花で覆われ、喜びと音楽とあらゆる楽しみとで満ち溢れていました。人々は、この道を踊り楽しみながら歩いて行きました。彼らは、そうと気付かないで、終わりに辿り着きました。道の終わりに地獄の深淵がありました。霊魂達は地獄に落ちました。……。彼らの数はあまりに多くて、数えることができませんでした。
そして、もう一つの小道を見ました。それは狭くて、茨や岩石が散らばっていました。この小道を行く人々は、目に涙を浮かべ、あらゆる苦しみを味わっていました。ある人々は、岩石の上に倒れましたが、すぐに立ち上がって進み続けました。その道の終わりには、あらゆる幸せに満ちた素晴らしい庭があり、この道を進んだ全ての霊魂はそこに入りました。入るや否や、彼らはあらゆる苦しみを忘れました」(『日記』、No.153)。
戸が閉められてしまうと、つまり、人生が終わって、神の国から閉め出されたとき、外に立ち戸を叩いて、「どうか開けて下さい。御一緒に食べたり飲んだりしました。また、私達の広場でお教えを受けたのです」と言っても、主はお答えになります、「お前達がどこの者か知らない。不義を行なう者ども、皆、私から離れ去れ」と(第三朗読)。
私達が「悔い改めて福音を信じ」(マルコ1・15)、神の御心を果たしつつ生きて行けるよう、神も「父として私達をしつけ、鞭打たれます。しつけられる時に、悲しく辛く思っても、それで鍛えられた人々は、義という平安に満ちた実を結びます」(第二朗読)。神は堕落した人間本性に対してある種の暴力を振るうよう勧めて、こう言われます。「天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い取ろうとしている」(マタイ11・12)。
天の父よ、あなたの御心を行って御国に入らせて頂くために、堕落した人間本性の望みに断固として「否」と言える勇気と力をお与え下さい。