2022年10月30日 年間第31主日 C年
(知恵11・22~12・2)、(Ⅱテサ1・11~2・2)、(ルカ19・1-10)
イエスを見て信じる恵み
「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」これこそ、神の独り子が人となってこの世に来て下さった根本的な目的です。私達は皆、失われた者、永遠に滅ぶはずの者でした。その一人一人に出会って救いをもたらすために、神の独り子は人となって、この世に来て下さいました。父である神が、人類を救うために決定された根本原則は、人となられた神の子イエス・キリストを見て、信じることです。これについて主御自身が言われます。「私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終りの日に復活させることである」(ヨハネ6・40)。
今日のザアカイがその模範です。イエスがどんな人か見たいと望んだのに、背が低かったので、群衆に遮られて見ることのできなかったザアカイ。それで、主が通り過ぎようとしておられた道を先回りして、いちじく桑の木に登って待っていたザアカイ。このようにイエスを見たいという望みを抱かせ、木に上るように促されたのは、神御自身でした。その場所に来ると、イエスは上を見上げて言われました。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
救いをもたらすために、神が主導権を取って働きかけられます。それを受け入れるか否かは、各人の自由です。ザアカイは、「急いで木から降りて、喜んでイエスを迎え入れ」ました。そして、聖霊に照らされて宣言しました。「主よ、私は財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かを騙し取っていたら、それを四倍にして返します。」これに答えて、主は言われました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」つまり、「この人も信仰の父アブラハムの子として、信仰を生きると決心した。それ故、今日、救いが訪れた」と。
ザアカイの態度に見られるように、信仰が本物なら、「神の御言葉を受け入れ、御言葉を行う人になります」(ヤコブ1・21-22参照)。私達もキリストを霊的な目で見て、神だと信じたので、救いに与かっており、御言葉を生きる者になりたいと望んでいます。大切なのは御言葉を実際に生きる者となることです。その恵みを主に切に願いましょう。行いが伴わない信仰は、死んだ信仰ですから(ヤコブ2・17)。
私達は今既に神の救いに与かっていますが、救いが確定するのは地上の生涯を終える時であり、その完成は主の再臨の時です。つまり、地上の最後の瞬間まで救いの恵みに忠実であるとき、救いが確定します。そして、実際に復活した体をもって永遠に神の子として生き始めるのは主の再臨の時です。救いの確定と完成をひたすら待ち望みながら日々目覚めて祈り、働きましょう。私達に与えられる栄光は、永遠であり、限りなく輝かしいのです!
天の父よ、あなたの御子イエスを見て信じる恵みと、御言葉に従って生きる恵みを、お与え下さい。そしてその恵みを、私達が決して無駄にしませんように!