(出エジプト17・3-7)、(ロマ5・1-8)、(ヨハネ4・5-42)
今日の福音の内容は、主とサマリアの女との対話です。そして、サマリアの女は回心前の私達の象徴です。主は回心前の私達に何を語られるのでしょうか。主の御言葉(10節、14節、23-24節)に注意を集中しましょう。
10節:「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
生きた水とは聖霊です。何故なら、主御自身が別の箇所で、「渇いている人はだれでも、私のところに来て、飲みなさい。私を信じる人は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われ、そしてその箇所において、生きた水とは聖霊だと、使徒ヨハネが説明しているからです。(ヨハネ7・37-39)。
14節:「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主が与えて下さる『聖霊』という生きた水は、私たちの内で泉となり、キリストと聖霊は力を合わせて私たちに働きかけて、永遠の命を今既に生きさせ、天国へ導き入れ、終りの日に救いを完成して下さいます。これについて、主はこう言っておられます。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を〔今、既に〕得〔ており〕、私はその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6・54)
23-24節:「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」
「まことの礼拝」とは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きた生贄として献げることです」(ロマ12・1)。この礼拝を献げるはずの私達が、「霊と真理をもって礼拝すべきなのです。」つまり、聖霊と真理であるイエス・キリストとによって生かされつつ御父を礼拝すべきなのです。ぶどうの木であるキリストと一致させて頂いた私達は、その樹液である聖霊に生かされながら御父を礼拝すべきなのです。
父である神は、私たちを三位一体の神の内的生命に与らせて、その命を永遠に生きさせたいと望んで下さっています。神様のこの計り知れない愛に応えるために、使徒パウロは言います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。…自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ロマ11・36~12・1)。
天の父よ、あなたは私たちを、ぶどうの木であるキリストに接ぎ木し、その樹液である聖霊で生かし続けることによって、あなたの子として神の命を生きさせて下さっています。この愛に応えるために私たちが、「自分の体をあなたに喜ばれる聖なる生きた供え物として献げつつ」、霊と真理をもってあなたを礼拝することができますように。