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  <title>主日の御言葉</title>
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    <title>日のあるうちに神の業を行う</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年3月19日　四旬節第4主日A年　　<br />
 (Ⅰサムエル16・1－13)、(エフェソ5・8－14)、(ヨハネ9・1－38)<br />
日のあるうちに神の業を行う<br />
　生まれつき目の見えない人は、イエスのお言葉を聞いたとき、明るい希望の灯（ひ）が心にパッとともるのを感じたに違いありません。と言うのは、主がこう言われたからです。「この人の目が生まれつき見えないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と。<br />
　彼が信頼と希望のうちにどんな神の業が行われるのかと待ち構えていると、主は、「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り*、シロアムの池に行って洗いなさい*」と言われました。これは霊的な意味で、彼がイエスに一緒について来て頂き、聖霊で目を洗うことを意味しています〔この記事の最後の注参照〕。彼がそのとおりにすると、見えるようになりました!<br />
　主は、この｢神の業｣を行う前に、「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言われました。「まだ日のあるうちに」とは、｢主が恵みを与えて善を行えるように助けてくださるうちに｣という意味です。この言葉に従って、生まれつき目の見えない人が、言われたとおりにすると、見えるようになりました!　肉眼が見えるようになっただけでなく、｢世の光｣であるキリストに照らされて、心の目も見えるようになり、メシアについて素晴らしい証をしました。<br />
　ファリサイ派の人々が、「イエスが目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあのイエスをどう思うのか」と尋ねたとき、彼は、「あの方は預言者です」と答えました。更にこうも言いました。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたメシアでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」すると彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を会堂から追放しました。つまり、破門しました。<br />
主は、破門された彼に出会うと、｢あなたは人の子を信じるか｣と言われました。彼が「それは誰のことですか」と尋ね、主が「あなたと話しているのが、その人だ」と答えられると、彼は、｢主よ、信じます｣と宣言して、キリストの弟子・キリストの兄弟とされました。「主よ、あなたを信じます」という信仰宣言は、恵みに助けられながら人が行うことの出来る最高の神の業です。霊的に死んでいた私たちが、主キリストへの信仰によって、罪を赦され、神の命を頂いて神の子とされ、天国で永遠に生きる者とされるのですから（ヨハネ6・29参照）。<br />
<br />
<br />
　天の父よ、私たちにもこの盲人と同じ心をお与えください。そして、主キリストへの信頼と希望のうちに恵みを受け入れ、その恵みに助けられて、日々、あなたの業を行うことができますように。<br />
<br />
<br />
【注*　唾で土をこねたものはイエス・キリストを意味し、シロアムの池の水は聖霊を意味します。なぜなら、唾は言（みことば）の象りであり、土から人間が形づくられた（創2・7参照）ので、唾と土がこね合わされたものは、神であり人であるイエス・キリストを意味し、シロアムとは『遣わされた者』つまり、御父から遣わされた『神の子イエス』のことで、イエスは御自分を信じる人の内から生きた水(聖霊)が流れ出るようになり(ヨハネ7・37－39参照)、「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」（ヨハネ4・14）と言っておられるからです。(四旬節第3主日A年参照)】<br />
<br />
<br />
]]></content>
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    <title>神の子らの《霊と真理による礼拝》</title>
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    <issued>2023-03-12T11:16:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年3月12日　四旬節第3主日A年 <br />
(出エジプト17・3－7)、(ロマ5・1－8)、(ヨハネ4・5－42) <br />
神の子らの《霊と真理による礼拝》 <br />
　 <br />
　今日の福音の内容は、主とサマリアの女との対話です。そして、サマリアの女は回心前の私達の象徴です。主は回心前の私達に何を語られるのでしょうか。主の御言葉（10節、14節、23－24節）に注意を集中しましょう。 <br />
　10節:「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませて下さい』と言ったのが誰であるかを知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」 <br />
　生きた水とは聖霊です。何故なら、主御自身が別の箇所で、「渇いている人はだれでも、私のところに来て、飲みなさい。私を信じる人は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われ、そしてその箇所において、生きた水とは聖霊だと、使徒ヨハネが説明しているからです。（ヨハネ7・37－39）。 <br />
　14節:「この水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」主が与えて下さる『聖霊』という生きた水は、私たちの内で泉となり、キリストと聖霊は力を合わせて私たちに働きかけて、永遠の命を今既に生きさせ、天国へ導き入れ、終りの日に救いを完成して下さいます。これについて、主はこう言っておられます。「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を〔今、既に〕得〔ており〕、私はその人を終わりの日に復活させる。」（ヨハネ6・54） <br />
　23－24節:「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 <br />
　「まことの礼拝」とは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きた生贄として献げることです」（ロマ12・1）。この礼拝を献げるはずの私達が、「霊と真理をもって礼拝すべきなのです。」つまり、聖霊と真理であるイエス・キリストとによって生かされつつ御父を礼拝すべきなのです。ぶどうの木であるキリストと一致させて頂いた私達は、その樹液である聖霊に生かされながら御父を礼拝すべきなのです。 <br />
　父である神は、私たちを三位一体の神の内的生命に与らせて、その命を永遠に生きさせたいと望んで下さっています。神様のこの計り知れない愛に応えるために、使徒パウロは言います。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。…自分の体を神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」（ロマ11・36～12・1）。 <br />
  <br />
　天の父よ、あなたは私たちを、ぶどうの木であるキリストに接ぎ木し、その樹液である聖霊で生かし続けることによって、あなたの子として神の命を生きさせて下さっています。この愛に応えるために私たちが、「自分の体をあなたに喜ばれる聖なる生きた供え物として献げつつ」、霊と真理をもってあなたを礼拝することができますように。 <br />
  <br />
  <br />
 <br />
 <br />
]]></content>
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    <title>ご変容の目的</title>
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    <issued>2023-03-05T16:16:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[　2023年3月5日　四旬節第2主日 A年　　 <br />
(創世記12・1－4)、(Ⅱテモテ1・8－10)、(マタイ17・1－9) <br />
　　　　　　　　ご変容の目的 <br />
 <br />
　毎年、四旬節第2主日のミサで、主の変容の出来事が朗読されます。｢その目的は二つある｣と、聖レオ一世教皇は言われます。すなわち、第一　弟子達が主の御受難に躓かないようにすること。第二 キリスト者も同じ栄光に与るという希望を保証すること。以下、この二点について考えましょう。<br />
 　第一　2011年3月11日午後2時46分に東日本で発生した大地震と、それによって生じた大津波のために、岩手・宮城・福島三県の太平洋岸の多くの市町村は壊滅的な被害を受け、大勢の方が津波に流されて亡くなられました。家族を失った悲しみを抱えながら生きておられる方が、今も大勢いらっしゃいます。更に地震と津波のために生じた福島第一原子力発電所の事故が、未曽有の大災害を引き起こしました。この大災害の後遺症の中で、大勢の人々が、最早以前のような生活を続けることが出来なくなっておられます。 <br />
　また、去年の2月24日に勃発した、ロシア軍によるウクライナでの傍若無人の破壊と殺戮の悲惨な状況を新聞・ラジオ・テレビなどで見聞きするとき、大勢の人が「どうして、こんなひどいことが21世紀のヨーロッパで起こるのか? 神も仏もいない」と考えたり、キリスト者の信仰が動揺したりするのではないでしょうか。 <br />
　この災害や軍事侵攻の全容だけでなく、全世界のあらゆる時代のあらゆる悲惨な状況を完全に把握しておられる主は、約二千年前の弟子たちの信仰だけでなく、世の終りまでの全キリスト者の信仰を固めるために、三人のおもだった弟子であるペトロ・ヤコブ・ヨハネを連れて、高い山に昇り、御自分の栄光を垣間見せられました。こうすることによって、彼らの信仰を固め、この三人が他の全てのキリスト者の信仰を固めるようにされたのです。これが、弟子たちに変容をお見せになった第一の目的でした。 <br />
 　第二　御自分の栄光に満ちた姿を見せることによって、主に結ばれている私たちが、将来どのような栄光に与るかを示して下さいました。つまり、神秘体の頭であるキリストが持っておられる栄光に、そのメンバーである私たちも与るのだという希望を保証して下さいました。 <br />
　主の変容のとき、三人の弟子は、栄光に輝く主の姿を見ました。「顔が太陽のように輝き、服が光のように白くなっているキリスト、天国で永遠に生き続けるキリスト」を見ました。更に、「これは私の愛する子、私の心に適う者。これに聞け」という、御父の声も聞きました。キリストの栄光が彼らの心にどんなに深く刻み付けられたことでしょう。　さて、地上の苦しみの後に、栄光が永遠に続きます。だから、ご変容を見た聖ペトロは力強く勧めます。「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみに与れば与るほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときに、喜びに満ちあふれるためです。キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いて下さった神御自身が、暫くの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにして下さいます」(Ⅰペトロ４・12－13、5・10)。　 <br />
　天の父よ、私たちが自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、あなたの御独り子に最後まで従うことができるよう助けて下さい。そして、御国で御子キリストの栄光に与らせて頂けますように。 <br />
 <br />
]]></content>
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    <title>人類の不従順とキリストの従順 </title>
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    <issued>2023-02-26T21:10:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年2月26日　四旬節第1主日 A年　　 <br />
 (創世記2・7－9、3・1－7)、(ローマ5・12－19)、(マタイ4・1－11) <br />
人類の不従順とキリストの従順 <br />
　今日の三つの聖書の箇所から、不従順が滅びをもたらし、従順が永遠の命をもたらすことを心に銘記しましょう。つまり、第一朗読でアダムとエバが犯した原罪 ― 不従順の罪 ― が語られ、第二朗読で、原罪の結果、「全ての人が永遠に滅ぶべき者となったが、キリストの従順によって永遠の命がもたらされた」ということが語られています（ローマ5・17－19）。そして今日の福音で「キリストが徹底的に従順を生き抜こうとされる」ことが暗示されています。 <br />
主は人祖に、「園の中央にある善悪の知識の木の実を食べてはいけない。食べると必ず死ぬ」と言われました（創世記2・17）。しかし、アダムとエバは、悪魔の誘惑に同意して、善悪の知識の木の実を取って食べました。 <br />
この原罪という罪について、聖フランシスコは、人祖だけでなく、全人類が同じ罪を犯し続けていると、次のように言います。「善の知識の木の実を食べる人とは、自由意志を勝手に自分のものとして、神がその人の中で語ったり行ったりされる善を、自分のものだとうぬぼれて、その善を誇る人です。誇った瞬間にその善が悪の知識の木の実となるのです」と。これが原罪の本質です。聖パウロは、原罪の代わりに不信心という語を用いて、「全人類が不信心の罪に陥っている」と言います(ローマ1・18－32参照)。【注　不信心とは「神を知っていながら、神を神として崇めることも感謝することもせず、虚しい思いにふけり、心が鈍く暗くなっている状態」です。】 <br />
　このような人類の罪を贖うために、キリストは、「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2・8)。そして、「御自分に従うすべての人に対して、永遠の救いの源となられました」(ヘブライ5・9)。 <br />
今日の福音に示される主の言葉を通して、御子が御父を愛するがゆえにどれほど忠実に御父に従い抜く覚悟であったかを、悟ることができますように。以下、悪魔の三つの誘惑に対する、主の三つのお答えです。「人はパンだけで生きるものではない。第一  神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」「第二  あなたの神である主を試してはならない。」「第三 あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」 <br />
 <br />
　天の父よ、あなたと御子への愛に満ちた従順（ヨハネ14・23）を生きることによってのみ、永遠の救いに入らせて頂けることを悟らせて下さい。 <br />
 <br />
 <br />
 <br />
 <br />
 <br />
 <br />
]]></content>
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    <title>世の知恵と神の知恵</title>
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    <issued>2023-02-23T16:42:00+09:00</issued>
    <modified>2023-02-23T16:42:57+09:00</modified>
    <created>2023-02-23T16:42:57+09:00</created>
    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年2月19日　年間第7主日 A年<br />
（レビ19・1－18）、（Ⅰコリント3・16－23）、（マタイ5・38－48）<br />
世の知恵と神の知恵<br />
　主は仰せになりました、「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。」この御言葉を聞いて、私たちはつぶやくのではないでしょうか、「もし、このとおりに生きるなら、悪人たちの食い物にされ、ひどい目にあうだろう。私は嫌だ。主のお言葉であっても、従わない」と。もしこのように言うのであれば、預言者エレミヤの言葉がそのまま私たちにも当てはまります。彼は言いました。「彼らは万事を人間的に判断し、主の言葉を退けた」と（エレ８・８－９参照）。被造物である私たちが、人間的に判断して、主の言葉を退けることが許されるのでしょうか。<br />
　使徒パウロの次の言葉を受け入れるべきです。「本当に知恵のある者となるために、愚かな者になりなさい。この世の知恵は、神の前では愚かなものだからです」（第二朗読）。神の前で知恵ある者となるために、この世に対して愚かな者となりましょう。御言葉どおりに生きようとして、もし悪人から食い物にされ、苦しまなければならなくなっても、それを受け入れるべきではありませんか。その模範がキリストです。主は御父の御旨どおりに語り行われたために、長老・祭司長・律法学者たちから排斥されて、殺されました。ところが、排斥されて殺されたキリストによってこそ、人類の救いがもたらされました。「召された者にとってキリストこそ、神の力、神の知恵なのです」（Ｉコリ1・24）。<br />
福音の後半部分で、主は言われました。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」そして、結びの言葉として言われました。「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」この理想に向かって、日々、恵みに助けられつつ一歩一歩前進しましょう。<br />
神のお与えになる知恵について、ヤコブは書いています。「神から出た知恵は何よりも先ず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません」と（ヤコ３・17）。これらの特徴を、今日の御言葉の中に、極めてはっきりと認めることができます。私たちのなすべきことは、聖霊に導かれて御言葉を正しく理解し、その教えどおりに忠実に生きようと努めることです。これこそ、キリスト教的生活の真髄です。<br />
　<br />
　天の父よ、聖フランシスコは万事を生き生きとした信仰の目で洞察し、信仰の真理に基づいて生き抜きました。私たちにも同じ恵みをお与え下さい。<br />
<br />
<br />
]]></content>
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    <title>神と隣人への愛、律法の真髄 </title>
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    <issued>2023-02-23T16:27:00+09:00</issued>
    <modified>2023-02-23T16:27:02+09:00</modified>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　2023年2月12日　年間第6主日 A年 <br />
（シラ15・15－20）、（Ⅰコリント2・6－10）、（マタイ5・17－37） <br />
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　神と隣人への愛、律法の真髄 <br />
　「私が来たのは、律法や預言者の教えを廃止するためではなく、完成するためである。」こう断言された主は、今日の福音の中で「殺すな」、「姦淫するな」、「偽りの誓いを立てるな」という三つの掟を神の権威をもって完成されました。 <br />
　①「殺すな」という掟を取り上げて、私たちが「兄弟に腹を立てて、『ばか』とか『愚か者』とか言うことを厳しく禁じ、また、「祭壇に供え物を献げて礼拝しようとするとき、兄弟が自分に反感を抱いていることを思い出したなら、先ず仲直りをしに行きなさい」と言われました。これが、「殺すな」という掟に関する主のお望みです。 <br />
　②「姦婬するな」という掟を取り上げて、邪な思いすらも厳しく咎められました。「みだらな思いで女を見る者は誰でも、すでに心の中でその女を犯したのである」と言い、貞潔に関して、「目や手があなたを躓かせるなら、それをえぐり出し、切り取って、捨ててしまいなさい」と命じられます。主のお望みは、躓いてから私たちの目や手を捨てることではなく、極めて大きい犠牲を払わねばならないとしても、躓かないよう警戒することです。貞潔でありたいなら、決して危険に近づかないようにすべきです。 <br />
　③「偽りの誓いを立てるな」という掟に関する主のお望みは、私たちが常に誠実であり、『はい』と言ったことはいつでも必ず『はい』であり、『いいえ』と言ったことはいつでも必ず『いいえ』であって、決して嘘を言わないことです。主は、「自分の言葉を信じさせようとして、誓いを乱用してはならない」と命じられました。 <br />
　以上の三つを、世界のキリスト者が主のお望みどおりに生きるなら、人間社会はどんなに清められ、気高いものとなることでしょうか。 <br />
　このように、一つ一つの律法と預言者の教えを完成される主は、最も重要な第一の掟と第二の掟について語り、「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」と仰せになりました（マタ22・34－40）。ですから、律法全体の教えを悟り実践したいなら、この二つの最も重要な掟の精神を悟り実践すればよいわけです。 <br />
　この愛の掟について、聖フランシスコは次のように祈ります。 <br />
第一の掟について　「天の父よ、あなたを常に憧れ望むことによって心を尽くしてあなたを愛し、あなたを常に思い巡らすことによって思いを尽くしてあなたを愛し、私たちの考えの全てをあなたに向け、万事においてあなたの栄光を求めることによって、精神を尽くしてあなたを愛し、私たちの霊魂と体の全ての力と感覚をあなたへの愛の奉仕のためだけに用い、それ以外のどんなことにも用いないことによって力を尽くしてあなたを愛せますように」と。 <br />
　第二の掟について　聖人はこう祈ります。「力を尽くして隣人を皆あなたへの愛に導き、他人の幸福を自分のことのように喜び、他人の不幸に同情し、また、どんな人をも決して傷つけないことによって、隣人を自分のように愛せますように」（聖フランシスコの小品集、117－118頁）。 <br />
  <br />
　天の父よ、あなたが望まれるのは愛だけです。あなたへの愛・隣人への愛を誠実に生きることが出来るよう、助けて下さい。 <br />
  <br />
]]></content>
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    <title>地の塩、世の光</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2023年2月5日　年間第5主日A年　　<o:p></o:p> (イザヤ58・7－10)、(Ⅰコリント2・1－5)、(マタイ5・13－16)<o:p></o:p>地の塩、世の光<o:p></o:p>　主は言われます、「あなたがたは地の塩・世の光である」と。「地の塩、世の光」として私たちが果たすはずの、使命について考えましょう。<o:p></o:p>1　地の塩　旧約時代に、神と契約を結ぶときに、動物または穀物を供え物として献げました。そして穀物を献げるとき、塩が不可欠でした。これについて、神は言われます。「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな」(レビ記2・13)。さて、キリストを信じる者は、地上の人類社会に対して塩の役割を果たすべきだと、主は言われます。塩は食べ物に味をつけ、腐敗を防ぎます。そして福音こそ、人類社会に対する真の塩です。それで主は、「あなたがたは地の塩である」と言うことによって次のように諭し、戒められるかのようです。「十字架の血によって、神が全人類と結んだ新しい永遠の契約において、あなたがた福音に従う者こそが、永遠の契約に不可欠の塩なのだ。あなたがたは、毎日の生活という献げ物に福音という塩をかけてささげよ。人類社会に福音という味をつけ、その腐敗を防がねばならない。この働きができない者は、塩気のなくなった塩のように、もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」<o:p></o:p>2　世の光　「キリストこそ、人類社会に対する真の世の光です」(ヨハネ9・5参照)。そのキリストに結ばれた私たちは、「以前には暗闇でしたが、今は、光となっています」(エフェソ5・8参照)。それで、主は言われます。「あなたがたは世の光である。・・・その光を人々の前に輝かしなさい。人々があなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と。<o:p></o:p>　私たちは、神の恵みによって｢地の塩、世の光｣とされたのですから、決して塩気を失った塩にならないように努め、福音的生活という立派な行いによって光を輝かさねばなりません。聖フランシスコの晩年のエピソードで全体を要約したいと思います。<o:p></o:p>　多くのフランシスコ会員が悪い模範によって人々につまずきを与えていることについて、聖人がひどく悲しんで祈っていたとき、主から次の諭しと約束を受けました。「小さき者よ、なぜ心を取り乱すのか。あなたを小さき兄弟会の牧者としたのは私ではなかったか。私が主要な守り手であることを、知らないのか。単純な人よ、私があなたを本会の牧者として選んだのは、従いたいと望む者たちをあなたに倣わせるためだった。堕落して離れ去った者たちを埋め合わせるために、他の者たちを私が選ぼう。そして、もし代わりの者が生まれていなければ、私が生まれさせる。だから、心を取り乱すな。ひたすら福音を生きることによって、救いのために働きなさい。会員が3人になったとしても、私の恵みによって、本会は揺らぐことがない」(Ⅱチェラノ158参照)。<o:p></o:p> 　天の父よ、聖フランシスコは、あなたの御子キリストの福音を生きることによって、キリストの光を世に輝かせました。私たちもそのように生きることによって、人々があなたを崇めますように。<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>真福八端、全福音の真髄</title>
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    <issued>2023-01-29T05:53:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年1月29日　年間第4主日　A年　　<o:p></o:p> (ゼファニヤ2・3、3・12－13)、(Ⅰコリント1・26－31)、(マタイ5・1－12)<o:p></o:p>真福八端、全福音の真髄<o:p></o:p>　山上の垂訓は、全福音の真髄です。そして山上の垂訓の要約として、真福八端が述べられます。ですから、真福八端は全福音の真髄の真髄です。キリスト者にとって大切なことは、福音を理解して、行うことです。「聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7・26)のですから。真福八端を行うために、先ずその一つひとつの意味を理解するように努めましょう。<o:p></o:p> 　「心の貧しい人」〔直訳　霊において貧しい人〕とは、神様だけが唯一の宝であり、自分自身と地上のものとを宝として所有せず、――この意味で「貧しく」、――自分よりも神を愛し(最も重要な第一の掟)、自分の頬を打つ敵をも愛して(第二の掟)、生きる人です(聖フランシスコの小品集、訓戒14参照)。<o:p></o:p>　「悲しむ人」とは、愛である神が愛されていないことについて、また、罪によって神が侮辱され、同時に、人々が滅びの道を突っ走っていることについて悲しむ人です。<o:p></o:p>「柔和な人」とは、受難を耐え忍ばれたキリストのように、自分が神から愛されていることをよく知っているので、侮辱や虐待さえも穏やかに受け入れ、心の静けさのうちにすべてを神の御手に委ねる人です。<o:p></o:p>「義に飢え渇く人」とは、自分の力だけでは罪が赦され、神の子とされることは不可能だと悟っていて、それを実現して下さる神の慈しみ深い働きに飢え渇いている人です。義とは、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として下さる神の慈しみ深い働きです。<o:p></o:p>　「憐れみ深い人」とは、善いサマリア人の譬えのように(ルカ10・30－37)、悲劇的な出来事に対しては心から同情して献身的に助け、自分に対する兄弟の罪については、｢七の七十倍も赦す｣(マタイ18・22)人です。｢憐れみ｣は本能的な愛情の現れではなく、神の愛に根ざした意志的な慈しみです。<o:p></o:p>　｢心の清い人｣とは、富・地位・名誉など地上の一切のものに愛着せず、――この意味で｢清く｣〔地上のものに愛着すると、心は汚れます〕、――天上のものを求め、生ける真の神を常に礼拝し仰ぎ見ている人です(聖フランシスコの小品集、訓戒16参照)。〔ここで言う礼拝は、自分自身を神に喜ばれる、聖なる生きた生贄として献げることです（ローマ12・1参照）。〕<o:p></o:p>　｢平和を実現する人｣とは、神をはじめ自然・社会・回りの人々並びに自分自身と和解し、真の幸せ〔神がお与えになる救い〕のうちに生きるよう、自分と人々のために神の御計画に協力して働く人です。<o:p></o:p>　「義のために迫害される人」とは、すべての人の救いを望まれる神の御心に一致して(Ⅰテモテ2・4参照)、人々の救いのために働いていて、その働きのゆえに迫害される人です。<o:p></o:p> 天の父よ、あなたの御子が「幸い」と言われた、これら八つの真の幸いを人生における最重要課題として受け入れ、取り組んでいけるよう、あなたの霊によって私たちの心を照らし導いて下さい。<o:p></o:p> ]]></content>
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    <title>御父の御心を行われるイエス</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2023年1月22日　年間第3主日　A年　　<o:p></o:p> (イザヤ8・23～9・3)、(Ⅰコリント1・10－17)、(マタイ4・12－23)<o:p></o:p>御父の御心を行われるイエス<o:p></o:p>イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞くと、ユダヤを去り、ガリラヤへ退かれました。そして、ナザレを離れ、カファルナウムに来て住まわれました。なぜそうされたのでしょうか。御父がイザヤを通して預言しておかれたことを（第一朗読のイザヤ8・23～9・1参照）、今こそ果たすべきだと悟られたからです。この時だけではなく、何を語り、何を行うにも決して自分勝手にせず、いつでも・どこでも・万事において御父の御心どおりに語ったり行ったりされました。この生き方について、聖書は断言します。キリストは世に来られたときに、次のように言われました。「あなたは、生贄や献げ物を望まず、むしろ、私のために体を備えてくださいました。……　そこで、私は言いました。『御覧ください。私は来ました。神よ、御心を行うために』」（ヘブライ10・5－7）。<o:p></o:p>キリストの全生涯は、御父の御心を行うという一言で要約されます。そして、公生活を開始されたその第一声が、「悔い改めよ。天の国は近づいた」でした。(マルコの平行箇所1・15では、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」)「悔い改めなさい」とは、「福音を信じなさい」という意味だと、バチカンの説教師であるカンタラメッサ師が断言されました。そして、福音を信じて生きるとは、御父の御心を行うことに他なりません。何故なら、福音は、御父が語るようにとお望みになっている御言葉を、キリストが一言半句も変えないで、そっくりそのまま、私たちに伝えて下さった言葉だからです。(ヨハネ12・49－50参照)<o:p></o:p>だからこそ、使徒パウロはローマの信徒への手紙の冒頭と最後の箇所(1・6、16・26)で、「私が使徒とされたのは、すべての異邦人を信仰による従順へと導くためです」と断言しました。そして、信仰による従順については、第二バチカン公会議の啓示憲章No.5の中で、次のように説明されています。「啓示される神に知性と意志を完全に奉献し、神の啓示に自発的に同意し、自由におのれを全く神に委ねる」ことだと。<o:p></o:p>信仰による従順の本質は、主キリストのように、いつでも・どこでも・万事において神の御心を行うことです。私たち全てのキリスト者が、このように生きるよう、主は公生活の初めに断言されたのです。<o:p></o:p>　<o:p></o:p>　主よ、あなたは神の子でありながら、多くの苦しみによって従順を学び、完全な者となられました。そして、御自分に従順なすべての人の永遠の救いの源となられました(ヘブライ5・8－9参照)。私達が“信仰による従順”を生き抜くことによってあなたに倣う者となれますように!<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>聖霊による洗礼とは、聖霊の中に沈められること</title>
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    <issued>2023-01-14T22:17:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年1月15日　年間第２主日A年<o:p></o:p> (イザヤ49・3－6)、(Ⅰコリント1・1－3)、(ヨハネ1・29－34)<o:p></o:p>聖霊による洗礼とは、聖霊の中に沈められること<o:p></o:p>洗礼者ヨハネは、イエスが聖霊によって洗礼を授ける方であると証ししました。「聖霊によって洗礼を授ける」と訳されている原語を直訳すると、「聖霊の中に沈める」という意味だと聖書学者は言います。それで、「聖霊の中に沈められた私達は、どのように生きるべきでしょうか?」<o:p></o:p>これについて、バチカンの説教師であるカンタラメッサ師は自分の体験を語られました。「私は、黙想会の度毎に、『今度こそ、川の向こう岸に渡るぞ!』(つまり、『今までの生活を改め、新しい生活に入るぞ』)と決心したものでした。しかし、一週間もすると、その決心は消えてしまい、依然として川のこちら側にいました。ところが、ある機会に聖霊の導きを切に願い求め、そのために人々に祈ってもらおうと決心しました。そしてその準備をしていたとき、一つのビジョンを見ました。馬車に乗り、手綱を握っていました。すると、私の横に主が座って、『その手綱を私に任せてくれませんか』と言われました。明日のことさえ、自分では決定出来ないことを認めて、手綱を主に任せることを承諾しました。つまり、私の人生を主の導きに委ねました。その後、聖霊の満たしのために人々に祈ってもらいました。それから何日か経って、はっと気付いたとき、聖霊が私を川の向こう岸に渡して下さっていました。」<o:p></o:p>カンタラメッサ師の場合のように、聖霊に力強く働いて頂くために、しなければならないことが二つあります。<o:p></o:p>第一に、いつでも・どこでも・万事において神に従いたいと望むこと（使徒5・32参照）。この望みがあるとき、その人の中で御父と御子の霊である聖霊が力強く働いて、その人を照らし、導かれます。第二に、聖霊の照らしと導きに、日々、忠実に従うこと。忠実に従えば従うほど、聖霊の照らしと導きは、ますます力強くなっていくからです。<o:p></o:p>キリストはぶどうの木で、私達はその枝です。この木につながっていて、神の命である聖霊という樹液で生かされるとき、豊かに実を結ぶことが出来ます。主キリストと一致し、聖霊によって生かされるために、以上の二つの実践に励みましょう。<o:p></o:p> 　天の父よ、御子キリストに自分の全てを委ねつつ、日々忠実に聖霊の照らしと導きに従うことが出来るようお助け下さい。<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>キリストの栄光を輝かせる</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2023年1月8日　主の公現<o:p></o:p>(イザヤ60・1－6)、(エフェソ3・2－6)、(マタイ2・1－12)<o:p></o:p>キリストの栄光を輝かせる<o:p></o:p>　主の公現とは、神の独り子が人となってこの世に来て、世界の歴史の中で公に現れ、再臨の時まで、私たち一人ひとりの救いのために働き続けて下さることです（Ⅰテモ1・15参照）。救い主のこの偉大な働きかけに目を向け、どんなに素晴らしい恵みが与えられているかを、神の言葉に基づいて考えましょう。<o:p></o:p>預言者イザヤは第一朗読で言います。「エルサレムよ、起きよ、光を放て。主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い暗黒が国々を包んでいる。しかし、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60・1－2参照)。エルサレムとは、真のイスラエル、即ち、信仰によってキリストに結ばれている私たちのことです（ガラテヤ3・7参照）。そして、主に結ばれている私たちの上に神の命という栄光が輝いています。〔神の栄光とは、神の本性から流れ出る全ての善いもの、特に神の命を意味します。〕ところが、この世の人々が不信仰のうちに留まる限り、罪という闇と永遠の滅びという暗黒が彼らを覆い続けます。<o:p></o:p>主の栄光が私たちの上に現れていますが、その私たちがどのように生きるべきかを、占星術の学者たちが示しています。<o:p></o:p>第一　彼らは特別な星に導かれて、遠くから主のもとにやって来まし<o:p></o:p>た。私たちも、自分の心に現れた信仰という星に導かれて主のもとに導かれました。救いのために働き続けてくださっている主に、特に御聖体の主に、生き生きとした信仰をもって今日も近づきましょう。<o:p></o:p>第二　学者たちはひれ伏して幼子を礼拝しました。私たちも主を礼拝<o:p></o:p>しましょう。つまり、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生きた生贄として献げましょう。これこそ真の礼拝だからです」(ロマ12・1参照)。主は、礼拝のために献げた私たち自身を、決して御自分のために利用せず、私たちと人々との救いと聖性のために用いて下さいます! 主は何も奪わず、私たちが差し出したものを清め、そして高めて、神の子に相応しいものとして下さるのです!<o:p></o:p>第三　学者たちは黄金・乳香・没薬を贈り物として献げました。私た<o:p></o:p>ちも真の愛という黄金と、キリストに由来する柔和と謙遜という乳香、そして、サタンが支配するこの世と対決するときの犠牲や苦しみという没薬を贈り物として献げましょう。　<o:p></o:p>このように生きることによって、主は私たちを御自分の満ち満ちた背丈にまで高め、神の家族として永遠に生きさせて下さいます。キリストの栄光が、私たちの生活の中で明るく輝き出るなら、周りの人々もその栄光に向かって歩み出すでしょう。<o:p></o:p> 　天の父よ、信仰によってあなたの御子に結ばれた私たちが、キリストの栄光を日常生活の中で輝かせることによって、主の公現の協力者となれるよう助けて下さい。<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>神の慈しみの証人となる</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
    <dc:subject>未分類</dc:subject>
    <content type="html"><![CDATA[2023年1月1日　神の母聖マリア<o:p></o:p> (民数記6・22－27)、(ガラテヤ4・4－7)、(ルカ2・16－21)<o:p></o:p>神の慈しみの証人となる<o:p></o:p>母なる教会は、元旦を神の母聖マリアの祝いと同時に、世界平和のための祈りの日と定めています。この祝いと祈りを神の御心に適った仕方で実行するために、どうすればよいのでしょうか。結論は、神の慈しみの証人となることです。<o:p></o:p>私たちは全世界の平和のために祈るべきですが、平和の実現に関する神の教えは、極めて単純明快です。イエスが言っておられるからです。「人類は、信頼をもって私の慈しみへ向かわない限り、決して平和を見出さない」（聖ファウスティナティナの『日記』No.300）と。つまり、人類が平和を見出すのは、信頼をもって神の慈しみに向かう時だけです。これを説明して教皇ヨハネ・パウロ二世は、ポーランドのクラクフ市のワギエヴニキに完成した神の慈しみの大聖堂を献堂するとき、次のように語られました（2002年8月17日）。<o:p></o:p>　「憎しみと復讐のあるところに平和をもたらすために、戦争の苦しみと死のあるところに平和をもたらすために、人々の心と精神に平和をもたらすために、神の慈しみが必要です。神の慈しみによって、全世界の人々が平和と幸福を見出しますように! これを実現するために、兄弟姉妹の皆さん、どうか神の慈しみの証人となって下さい。皆さんにこの使命を委ねます。」<o:p></o:p>ではどうすれば、神の慈しみの証人となれるのでしょうか。聖母の模範に倣うことです。羊飼いたちが天使の話したことを人々に知らせたとき、ほかの人々は、その話を不思議に思っただけでした。しかし、聖母はこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしておられました! いつでも、どこでもこうすることによって、聖母はイエスの慈しみを誰よりも深く理解して、その似姿に創りかえられ、神の慈しみの最も力強い証人となられました!<o:p></o:p>カナの婚宴のとき、聖母は御子イエスに一言だけ言われました。「ぶどう酒がなくなりました」と。「婦人よ、私とどんな関わりがあるのです。私の時はまだ来ていません」という、イエスの返事にもかかわらず、聖母は召し使いたちに言われました。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにして下さい。」慈しみに対する聖母の信頼に応えて、イエスは、御自分のタイムテーブルを急遽変更して、80ないし120リットルの水がめ六つに水を満たさせ、それを最高のぶどう酒に変えられました! <o:p></o:p>私たちも聖母の模範に倣って、イエスの言葉と行いを心に納めて思い巡らしましょう。そして、理解させて頂いたことを日々の生活の中で実行するように努めましょう。そうすれば、慈しみ深いイエスの似姿に変えられ、神の慈しみの力強い証人となれます。<o:p></o:p> 天の父よ、御子イエスの慈しみの証人となるために、聖母のように主の言葉と行いを心に納めて思い巡らし、それを日々の生活の中で実行できるよう助けて下さい。<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>神の独り子が人となられた</title>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2022年12月25日 主の降誕(夜半)<o:p></o:p> (イザヤ9・1－6)、(テトス2・11－14)、(ルカ2・1－14)<o:p></o:p>神の独り子が人となられた<o:p></o:p>「神が人間になられた」という詩(原作ルイス・カッセルズ)を散文調に書き直したものを読み、その意味を考えましょう。<o:p></o:p> 年を取った一人の農夫が　ゆり椅子に身を委ねて<o:p></o:p>暖炉の火を見つめていた。遠くで教会の鐘が鳴っている。<o:p></o:p>クリスマス・イブ。<o:p></o:p> 彼はもう長年　教会に背を向けて生きてきた。<o:p></o:p>「神が人間になった、だと？　ばかばかしい。<o:p></o:p>だれが　そんなことを信じるものか。」<o:p></o:p> 眼を閉じ、薪のはじける音を聞きながら<o:p></o:p>彼はうとうとと眠っていた。突然　窓ガラスに　<o:p></o:p>何かがぶつかる烈しい物音。それも次々に、更に更に烈しく。<o:p></o:p>何事かと、彼は身を起こした。<o:p></o:p> 窓際に立って見ると　音も無く雪の降りつもる夜の闇の中に<o:p></o:p>夥しい小鳥の群れがこの家を目指して押し寄せてきていた。<o:p></o:p>雪のふりしきる夜の闇に　渡りの途を誤ったのだろうか<o:p></o:p>小鳥達は灯火を求めて　ガラス窓に次々と打ち当たっては<o:p></o:p>むなしく軒下に落ちていく。<o:p></o:p> 彼は呆然とその有様を眺めていたが　やがて外に出ると　<o:p></o:p>雪の降り積もるなか　一目散に納屋へ走った。<o:p></o:p>窓を大きく左右に開け放ち、電灯を明々と灯して<o:p></o:p>干し草を豊かに蓄えた暗い納屋へ<o:p></o:p>小鳥達を呼び入れようとした。彼は叫んでいた。<o:p></o:p>「こっちだ、こっちだ、こっちへ来い！」<o:p></o:p> しかし　小鳥達は彼の必死の叫び声に応えず<o:p></o:p>なおも　ガラス窓に突き当たっては死んでいった。<o:p></o:p>農夫は　心に思った。「ああ、私が小鳥になって、<o:p></o:p>彼らの言葉で話しかけることが出来たなら！」<o:p></o:p> その瞬間、彼は息を飲み、瞬時にして悟った。<o:p></o:p>「神が人になられた」ということの意味を。<o:p></o:p>彼は思わず　その場にひざまずいた。<o:p></o:p> 神は人となってこの世に来て下さいました。その目的は<o:p></o:p>　◎ 暗闇にさまよう人類に歩むべき道を教えるため、<o:p></o:p>　◎ 人類の罪を御自分が引き受けて、その贖いを成し遂げるため、<o:p></o:p>　◎ 永遠の滅びの代わりに永遠の命・神の命を与えるため、<o:p></o:p>　◎ そして神の子として神の国で永遠に生きさせるためです。<o:p></o:p>聖書は断言します。<o:p></o:p>「神はその独り子を与えるほどに世を愛された。」（ヨハネ3・16）<o:p></o:p>「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、<o:p></o:p>私達が生きるようになるためです。」（Ⅰヨハネ４・９）<o:p></o:p>]]></content>
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    <title>神である救い主への信仰による従順</title>
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    <issued>2022-12-17T08:23:00+09:00</issued>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2022年12月18日 待降節第4主日 A年<o:p></o:p> (イザヤ7・10－14)、(ロマ1・1－7)、(マタイ1・18－24)<o:p></o:p>神である救い主への信仰による従順<o:p></o:p>　今日の御言葉の中心的なメッセージは、「処女マリアから生まれるイエスが、預言されていた“ダビデの子”で、“神である救い主”だ」ということです。これを確認しましょう。<o:p></o:p>　処女マリアは大天使から告げられました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」と（ルカ1・35）。マリア様はこの事実を婚約者のヨゼフ様に伝えられました。すると、義人のヨセフ様は次のように考えられました。「聖霊によって神の子を宿したマリアを自分の妻として迎え入れることも、生まれてくる神の子に対して父親気取りでいることも許されない。マリアとその胎内の子を神御自身に委ねて、私は身を引こう」と。このように考えて、「マリアのことを表ざたにしないで、ひそかに縁を切ろう」と決心されました。<o:p></o:p>　すると、主の天使が夢に現われて、神のお望みを告げました。「ダビデの子ヨセフ、そのように恐れないで妻マリアを迎え入れなさい。確かにマリアは聖霊によって身ごもった。だからといって、『自分の妻として迎え入れるべきでない』と考えてはいけない。神の御旨はこうである。マリアは男の子を生む。ダビデの子孫であるあなたが、マリアとその子を迎え入れて、その子にイエス、すなわち“主は救う”と名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。このように、ダビデの子孫であるあなたが母と子を受け入れることによって、その子をダビデの家系に入れることになる。これが神のお望みである」と（レオン・デュフール、福音の研究《ヨセフヘの告げ》の項参照）。こうして、「救い主がダビデの子孫から生まれる」という神の約束（Ⅱサムエル７・12－13）と、「処女が身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言とが（第一朗読）、成就しました。<o:p></o:p>　このことが第二朗読においても語られました。「御子は肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、私たちの主イエス・キリストです」と。そして、この世に来られた神の子・救い主に対して、私たちの取るべき態度は信仰による従順です。これについて使徒パウロは言います。「私たちは、すべての異邦人を信仰による従順へと導くために、使徒とされました」と（第二朗読）。信仰による従順とは、「啓示される神に知性と意志を完全に奉献し、神の啓示に自発的に同意し、自分自身を自由に残りなく神に委ねることです」（啓示憲章No.5）。その模範がヨセフ様です。ヨセフ様は万事において神のみ旨にいつも完全にかつ速やかに従われました。<o:p></o:p>　ですから待降節最後の主日の今日、処女マリアからお生まれになったイエスが、預言されていた“ダビデの子”で“神の子・救い主”であることを確認し、信仰による従順の恵みを願いましょう。<o:p></o:p> 　天の父よ、私たちが信仰による従順を生き抜くことができるよう、いつも助け導いて下さい。<o:p></o:p> ]]></content>
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    <title>喜びの源</title>
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    <issued>2022-12-10T11:35:00+09:00</issued>
    <modified>2022-12-10T11:35:27+09:00</modified>
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    <author><name>syouziatusi</name></author>
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    <content type="html"><![CDATA[2022年12月11日　待降節第3主日　A年<o:p></o:p> (イザヤ35・1－10)、(ヤコブ5・7－10)、(マタイ11・2－11)<o:p></o:p>喜びの源<o:p></o:p>待降節第3主日は伝統的に「喜びの主日」と呼ばれています。それは、第一に神の子が全人類の救い主として与えられたことと、第二に その救い主によって実現された私達の身分が実に偉大なものだからです。この二点について考えましょう。<o:p></o:p>第一 洗礼者ヨハネが、自分の弟子達をイエスのもとに送って、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも、他の方を待たねばなりませんか」と尋ねさせたとき、主は、第一朗読のイザヤの預言を引用しながら答えて言われました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き（イザヤ35・5）、重い皮膚病を患っている人は清くなり、死者は生き返り、“貧しい人は福音を告げ知らされている（イザヤ61・1）。”私につまずかない人は幸いである」（第三朗読）。このように言って、御自分がイザヤの預言していたメシアであると、断言されました。<o:p></o:p>　主は、更に、洗礼者ヨハネがメシアの先駆者であることを説明されました。「『見よ、私はあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』（マラキ3・1）と書いてあるのは、この人のことだ。」つまり、父である神は、御子キリストの先に使者であるヨハネを遣わし、キリストのために道を準備させられたのです。<o:p></o:p>　さて、第二の 私達の身分の偉大さですが、恵みを頂く前の私達はサタンの国で罪と死の奴隷でした。そして、霊的な意味で、目が見えず、耳が聞こえず、口が利けず、足も不自由でした。即ち、神を見聞きすることも、神と語り合うことも、神の方に歩み出すこともできませんでした。その私達が解放され、癒されただけでなく、主の霊を注がれて、神の子とされています。つまり、神の命を頂き、天の御父の子、キリストの兄弟・姉妹、聖霊の神殿とされています。〔しかし、この身分が確定するのは、地上の生涯を終えたときです。〕だから、女から生まれた者のうち最も偉大で、預言者以上の者であった洗礼者ヨハネよりも、天の国で最も小さな者でも、彼よりも偉大です。この身分をどんなに深く感謝し、喜び楽しむべきでしょうか。<o:p></o:p>　私達の偉大な身分を喜び、神に感謝すべきであると同時に、地上で生きている限り、この素晴らしい身分を失う危険性があることをわきまえて、苦難や試練のときに忍耐すべきです。「預言者達は、主の名によって語ったために苦しみを受けたとき、それを耐え忍びました」（第二朗読参照）。私達も神の子にふさわしく生きようとするとき、苦難や試練がふりかかることがあり得ます。そのとき、預言者達のこの模範に倣いたいものです。<o:p></o:p>　<o:p></o:p>　天の父よ、あなたの御独り子がメシアとしてこの世に来て下さったことと、私達にもたらして下さった身分とが、どんなに大きい恵みであるかを悟らせて下さい。<o:p></o:p>  ]]></content>
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