2023年1月29日 年間第4主日 A年
(ゼファニヤ2・3、3・12-13)、(Ⅰコリント1・26-31)、(マタイ5・1-12)
真福八端、全福音の真髄
山上の垂訓は、全福音の真髄です。そして山上の垂訓の要約として、真福八端が述べられます。ですから、真福八端は全福音の真髄の真髄です。キリスト者にとって大切なことは、福音を理解して、行うことです。「聞くだけで行わない者は、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(マタイ7・26)のですから。真福八端を行うために、先ずその一つひとつの意味を理解するように努めましょう。
「心の貧しい人」〔直訳 霊において貧しい人〕とは、神様だけが唯一の宝であり、自分自身と地上のものとを宝として所有せず、――この意味で「貧しく」、――自分よりも神を愛し(最も重要な第一の掟)、自分の頬を打つ敵をも愛して(第二の掟)、生きる人です(聖フランシスコの小品集、訓戒14参照)。
「悲しむ人」とは、愛である神が愛されていないことについて、また、罪によって神が侮辱され、同時に、人々が滅びの道を突っ走っていることについて悲しむ人です。
「柔和な人」とは、受難を耐え忍ばれたキリストのように、自分が神から愛されていることをよく知っているので、侮辱や虐待さえも穏やかに受け入れ、心の静けさのうちにすべてを神の御手に委ねる人です。
「義に飢え渇く人」とは、自分の力だけでは罪が赦され、神の子とされることは不可能だと悟っていて、それを実現して下さる神の慈しみ深い働きに飢え渇いている人です。義とは、私たちの罪を赦し、私たちを神の子として下さる神の慈しみ深い働きです。
「憐れみ深い人」とは、善いサマリア人の譬えのように(ルカ10・30-37)、悲劇的な出来事に対しては心から同情して献身的に助け、自分に対する兄弟の罪については、「七の七十倍も赦す」(マタイ18・22)人です。「憐れみ」は本能的な愛情の現れではなく、神の愛に根ざした意志的な慈しみです。
「心の清い人」とは、富・地位・名誉など地上の一切のものに愛着せず、――この意味で「清く」〔地上のものに愛着すると、心は汚れます〕、――天上のものを求め、生ける真の神を常に礼拝し仰ぎ見ている人です(聖フランシスコの小品集、訓戒16参照)。〔ここで言う礼拝は、自分自身を神に喜ばれる、聖なる生きた生贄として献げることです(ローマ12・1参照)。〕
「平和を実現する人」とは、神をはじめ自然・社会・回りの人々並びに自分自身と和解し、真の幸せ〔神がお与えになる救い〕のうちに生きるよう、自分と人々のために神の御計画に協力して働く人です。
「義のために迫害される人」とは、すべての人の救いを望まれる神の御心に一致して(Ⅰテモテ2・4参照)、人々の救いのために働いていて、その働きのゆえに迫害される人です。
天の父よ、あなたの御子が「幸い」と言われた、これら八つの真の幸いを人生における最重要課題として受け入れ、取り組んでいけるよう、あなたの霊によって私たちの心を照らし導いて下さい。