2022年5月1日 復活節第3主日C年
(使徒5・27-41)、(黙示録5・11-14)、(ヨハネ21・1-19)
愛するがゆえに従う
主に従う、これが今日の御言葉のキーワードです。救いの業が完成された暁に、全被造物は、「キリストのもとに一つにまとめられて」(エフェソ1・10参照)、声高らかに賛美して言います。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」(黙示5・13)。こうして、救われた全被造物は聖霊に導かれて御父とキリストに従いつつ、賛美と誉れと栄光を献げるようになります。
どんなに認めたくなくても、人は慈しみの王である神の支配のもとに永遠に生きるか、サタンと共に永遠に苦しむか、このどちらかです。ところが現代人の多くは、神に従うことを望まず、不信心*という罪の毒に打たれて(ローマ1・18参照)自分中心に生きています。
【注* 不信心:神を知りながら、神を神として崇めず、神に感謝しないこと】
ピアノは、選べるものなら、次のどちらを選ぶべきでしょうか。最高のピアニストと一体となり、愛という曲を奏でながら永遠に生きることか。或いは、憎しみに燃えている獣に所有されて、毎日毎日、虐待され、最後には、その獣と共に消えることのない火に投げ込まれることか。私たちは、知性と自由意志を備えた・自由な・独立した被造物ですが、ある意味でピアノのような存在であり、イエスという神であるピアニストと一致し交わりながら日々を過ごすとき、一人ひとりのあらゆる能力がこの上もなく高められて、人々の救いという神の最高のお望みを果たしつつ神と共に生きます。これについて聖ペトロの模範を見ましょう。
第一朗読で、大祭司や議員たちが、「イエスの名によって話してはならない」と命じましたが、ペトロは答えて言います。「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません。」ペトロは鞭打たれても、殺すと脅されても、人々の救いのために、主に従うことを決してやめませんでした。
今日の福音で、復活された主がガリラヤ湖畔に現れて、弟子たちに不思議な大漁をお与えになったとき、ヨハネが「主だ!」と叫びました。するとペトロは、一刻も早く主のもとに行こうとして、湖に飛び込みます。そして主が、「今、捕った魚を少し持って来なさい」と仰せになると、ペトロはすぐさま舟に乗り込み、網を陸に引き上げます。
朝食後、主がペトロに三度、「私を愛するか」とお尋ねになると、かつて三度、主を否んだペトロは、今、深くへりくだって言います、「主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」この受け答えから明らかなように、ペトロが素早く主に従うのは、キリストを心から愛しているからです。そのペトロに、主は、「私の小羊を飼いなさい。私の羊の世話をしなさい」と言って、彼を初代の教皇となさいます。愛するがゆえに従う者に、主はどんなに偉大な使命を与えて、その人と共に人々の救いのために働かれることでしょうか。
キリストヘの愛を、謙遜にしかもきっぱりと宣言したペトロに、主は仰せになります、「私に従いなさい」と。これは、「十字架上の死に至るまで、私に従いなさい」という意味でした。後程、ペトロは実際に十字架につけられて、人々の救いのために命を献げました。
天の父よ、使徒ペトロに倣って、私たちもあなたの御子、私たちの主キリストに心からの愛をもって従うことが出来るよう、お助け下さい。