2022年4月24日 復活節第2主日
(神の慈しみの主日)
(使徒5・12-16)、(黙示録1・9-19)、(ヨハネ20・19-31)
神の慈しみと真の平和
今日は『神の慈しみの主日』です。この祭日が制定され、全世界のカトリック教会で祝われることを、主イエス御自身が熱く望まれました。その経緯を黙想しましょう。
神の独り子が人となって、この世に来て下さった目的は、① 全人類の罪を御自分が引き受けて、十字架上で罪の贖いを成し遂げ、②復活して永遠に生きている御自分の命を与えて、私達を神の子として永遠に生きさせるためでした。③ その恵みを戴くためには、私達に悔い改めが求められます(ルカ24・45-47参照)。この三つがキリストの«地上における使命»の最も重要な三本柱です。
私達全人類は、原罪の結果、体も霊魂も永遠に滅んでしまう運命にありました(カトリック教会のカテキズム、No.403参照)。慈しみ深い神は私たちを憐れみ、御自分の独り子を人としてこの世に遣わし、人となられた神が«霊魂と体の死»という最悪のものを引き受けて、その贖いを成し遂げ、«罪の赦しと永遠の命»という最善のものを差し出して下さっています。ここに«神の慈しみ»があります。この恵みを私たちはどのようにして戴くのでしょうか。
主は、今日の福音の中で三度も、「あなたがたに平和があるように」と言われました。主が言われる平和とは、罪によって神に敵対していた私達が、キリストの死によって罪の赦しと神との和解の恵みを頂き、ぶどうの木であるキリストに接ぎ木されて〔キリストは復活して永遠に生きる者となられましたが、そのキリストに接ぎ木されて〕、幸福の充満のうちに永遠に生きさせて頂くことです。この恵みを頂くために、誰でも、どんなに大きな罪人であっても、慈しみ深い主キリストに信仰と信頼をもって近づきさえすれば良いのです。だからこそ、キリストは聖ファウスティナを通して次のように言われるのです。
「どんな霊魂も、私の慈しみに信頼をもって向かわない限り義とされない。これこそ、復活祭後の最初の主日が慈しみの祭日として祝われるべき理由である」(『日記』No.570)。「人類は、私の慈しみの泉に向かわない限り、平和を見出さない」(『日記』、No.699)。
以上を要約して、福音史家ヨハネは、自分の福音書の結びとしてこう断言しました。「これらのことが書かれたのは、あなたがたがイエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20・31)と。
天の父よ、あなたと御子の慈しみによって、聖霊がお与えになる「義と平和と喜び」(ロマ14・17)――神の国――へ私達を迎え入れて下さい。