2022年3月27日 四旬節第4主日 C年
(ヨシュア5・9-12)、(Ⅱコリント5・17-21)、(ルカ15・1-32)
肥えた子牛を屠りなさい。食べて祝おう
今日の福音は、「その内容から言って『愛において放蕩な父親の譬え』と言うべきです」(第二バチカン公会議顧問神学者、バルナバ・エイハーン神父)。 この事実を、父親が僕達に言った次の言葉に焦点を当てて考えましょう。「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。」
父親のこの言葉は、日々のミサの中で、人間には決して考えられないような仕方で実現しています。すなわち、肥えた子牛とは御子イエスであり、私達・全人類の罪の赦しのために、イエスは、世の終りまで日々、祭壇上で屠られており、私達はその主の御体を食べさせて頂いているのです。この事実を心にしっかりと銘記しましょう。
主は、約二千年前、十字架上で私達の罪を引き受け、御自分の命を献げることによって、私達の罪を贖って下さいました。そして今、祭壇上で、主は再び私達一人一人の罪を引き受けて、その罪の贖いのために御自身を御父に献げて下さっています!
ミサの中で聖変化された御体と御血を奉挙した後、司祭はこう祈ります。「私達は今、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、命のパンと救いの杯を献げます(第二奉献文)。」ヘブライ人への手紙5章1節がこの祈りの意味を理解する鍵です。この箇所で、大祭司キリストの使命についてこう言われています。「大祭司は全て人間の中から選ばれ、罪のための供え物や生贄を献げるよう、人々のために神に仕える職に任命されています。」つまり、大祭司キリストは、ミサの聖変化後、人々の罪を贖う生贄として御自分を御父に献げて、人々のために神に仕えて下さっているのです!
そして、キリストの神秘体のメンバーとして私達も、大祭司キリストと一致して、人々の罪のための生贄として自分の命を献げて、人々のために神に仕えるはずなのです。これが第二奉献文の「私達は今、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、命のパンと救いの杯を献げます」という言葉の意味です。こんな形で「肥えた子牛を連れて来て、屠りなさい」という御父の言葉が、現実に実現しています。
そしてミサの『交わりの儀』のところで、屠られた神の小羊を拝領するとき、「食べて、祝おう」という御父の言葉が実現しています。私達が罪を赦され、神と和解させて頂いた後、御子の体を拝領することによって、ますます御子の似姿に変えられ、三位一体の神と喜び合うのです!
三位一体の神よ、全ての放蕩息子・放蕩娘を温かく迎え入れるために、このような犠牲を払い続けて下さっていることを心から感謝します。私達が大祭司キリストの良い協力者となれるよう、お助け下さい。