2022年2月13日 年間第6主日 C年
(エレミヤ17・5-8)、(Ⅰコリント15・12-20)、(ルカ6・17-26)
幸いな人と不幸な人
今日の第一朗読で、神はエレミヤを通して幸いな人と不幸な人について語られました。「呪われよ、滅びゆく人間に信頼し、その心が主から離れ去っている人は。彼は荒地の裸の木で、恵みの雨で潤されず、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は流れのほとりに植えられた木で、旱魃の年にも憂いがなく、葉は青々と茂り、季節になると実を結ぶ」(第一朗読参照)。そして、主御自身が福音の中で更に詳しく語られました。「貧しく、今飢え、今泣いているあなたがたは幸いである。富んでおり、今満腹し、今笑っているあなたがたは不幸だ。」身体的・物質的な意味において、こう言われたのではありません。この意味を考えましょう。
「富んでいる人」とは、神ではなく地上の富に頼っている人のことです。「満腹している人」とは、地上の快楽を人生の第一目的だと見なして追求する人のことであり、「笑っている人」とは、空しい自己満足に陥っている人のことです。このような人々は不幸です。地上の富・快楽・自己満足は、その人の生涯が終わるとき、はかなく消えてしまうからです。
これに反して、「貧しく、今飢え、今泣いている人は幸いだ」と言われました。「貧しい人」とは、神にひたすらより頼みつつ、神と人への愛だけを唯一の宝と見なして、その愛のために生きる人のことです。「飢えている人」とは、神の義に飢え渇いており、その義が自分にも他の人々にも与えられるよう切望する人のことです。そして神の義とは、罪を赦し、神の命を与えて下さる、神の慈しみ深い働きです。「泣く人」とは、罪がキリストを再び十字架につけることを知って、自分と隣人との罪について心から悲しみ泣きながら神の慈しみに寄り頼む人のことです。
結局、私達は、何を真の富だと悟り、何に飢え渇き、何を喜ぶはずでしょうか。神が唯一最高の富であることを悟って、神との一致と交わりによって神の命に与り、神の義がなければ、その命に与れないので、神の義に飢え渇き、神の義が注がれることを妨げる罪を心から悲しみ泣きながら神の慈しみに寄り頼む人は幸いだと、主は言われます。
この結論は、死者の復活の教えによって、更に補強され、堅固にされます。神は使徒パウロを通して断言されました。「ブドウの木であるキリストが復活したのだから、その枝であるキリスト者も必ず復活する」(第二朗読&ローマ6・5参照)。
地上の命は長くても百年ですが、神の命は永遠です。地上の命のために永遠の命を犠牲にしてよいのでしょうか。はかなく消える富や快楽や自己満足のために、永遠に続く神の命と喜びを犠牲にしてよいのでしょうか。主が言われる不幸を捨てて、真の幸福を獲得しましょう。
天の父よ、人となられた御子イエス・キリストを通して、三位一体の神との一致と交わりに入らせて頂くことこそが、私たちにとって最高の幸せであることを悟らせて下さい。