2022年1月9日 主の洗礼 C年
(イザヤ40・1-11)、(テトス2・11~3・7)、(ルカ3・15-22)
福音を生きるために聖霊の注ぎを!
洗礼者ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました」(マルコ1・4参照)。イエスは、全く罪を犯されなかったのに、何故、「罪の赦しを得させるための」悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。洗礼を授けることを躊躇したヨハネに、イエスは言われました。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3・15)。悔い改めの洗礼をお受けになることが、どうしてイエスにとって「正しいこと」なのでしょうか。
洗礼者ヨハネの時までの「悔い改め」とキリストの「悔い改め」との間に、大きい違いがあるのです! ヨハネの時までの「悔い改め」は、掟を破って神に背く生活を送っていたことを心から悔やんで、神との契約に立ち帰り、掟を順守することを意味していました。この意味では、キリストに悔い改めの必要はありませんでした。
ところが、そのキリストは公生活の初めに、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と呼びかけられました。この呼びかけは、次のことを意味します。「神の子であり、救い主である私がこの世に来たことによって、救いの時が満ち、神の国があなたがたのところに来ている。悔い改めることによって、つまり、福音を信じることによって、神の国に入りなさい。」〔カンタラメッサ著、『キリストにおける生活』92-93頁参照〕。要するに、キリストが言われる「悔い改め」とは、御自身がもたらされる「福音」を信じることなのです。ですから、悔い改めの第一歩は、「福音を信じます」という信仰告白に他なりません。そのように呼びかけられるキリストが、神秘体の頭として、この悔い改めの第一歩を率先して踏み出されるのは、正しいことでした。
天の父よ、あなたの霊であり、御子キリストの霊でもある聖霊を、今、全地の上に遣わして下さい。