2021年12月12日 待降節第3主日 C年
(ゼファニヤ3・14-17)、(フィリピ4・4-7)、(ルカ3・10-18)
主が愛して下さったように愛するために
今日の福音で特に重要なのは次の箇所です。この箇所をご一緒に考えましょう。「その方は聖霊と火であなた達に洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻は消えることのない火で焼き払われる。」私達は三位一体の神の命に沈める洗礼(マタイ28・19-20参照)を授けて頂きました。その結果、「私達は、神の命そのものである神の愛が私達の心に注がれています」(ローマ5・5)。だから主は強く勧められます。「神の愛が注がれているのだから、その愛に生かされて、私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」と(ヨハネ13・34参照)。そして、その愛を生きたかどうかを世の終わりの公審判のときにお調べになります。
洗礼者ヨハネが言った箕とは「世の終わりに行われる公審判」のことであり、その箕を持って「脱穀場」である「この世」を隅々まできれいにされます、つまり麦と殻を篩(ふる)い分けられます。そして、麦は倉に納め、殻は消えることのない火で焼き払われます。即ち「神の愛である聖霊に導かれてふさわしい実を結んだ人々」である「麦」を「神の国」という「倉」に納め、「実を結ばなかった者」である「殻」を「地獄の火」で焼き払われます。
私達にとって重要なのは、倉に納められる麦になることであって、決して地獄の火で焼かれる殻になってはなりません。そのためにこそ、福音の冒頭(ルカ3・10-14)で、洗礼者ヨハネは具体的な勧めを与えました。同じことを主も、公審判の教えの中で言われました。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたのである」、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしなかったことなのである」(マタイ25・40、45)。
この兄弟愛の実践をもう少し具体的に考えるとどうなるでしょうか。聖ファウスティナは、自分自身と、自分の目・耳・舌・手・足・心が慈しみ深くなるように助けて下さいと心を込めてキリストに祈り(心の籠った祈りについては、先週のポールの体験参照)、その実践に励みました。そしてその一つ一つの目的を次のように言います。
私自身があなたの慈しみの生き写しとなって、あなたの慈しみが私を通して隣人に届くためです。私の心が慈しみ深くなって、隣人のあらゆる苦しみに敏感であるため、また、誰に対しても心を閉ざさないためです。私の目が慈しみ深くなって、いつも隣人の中に美しいものを捜し求め、進んで彼らを助けるためです。私の耳が慈しみ深くなって、隣人の必要に注意深く耳を傾け、彼らの痛みやうめきを聞き取るためです。私の舌が慈しみ深くなって、決して隣人をけなさず、全ての人に慰めと赦しの言葉をかけるためです。私の手が慈しみ深くなって、隣人に良いことだけを行い、より困難で・より骨の折れる仕事は私が引き受けるためです。私の足が慈しみ深くなって、自分の疲れと嫌気に打ち勝ち、急いで隣人を助けに行くためです。(『日記』136参照)
天の父よ、私達が聖ファウスティナの祈りを私達自身の祈りとして、実際にそれを生きる者につくり変えて下さい。