2021年11月28日 待降節第1主日 C年
(エレミヤ33・14-16)、(Ⅰテサ3・12~4・2)、(ルカ21・25-36)
いつも目を覚まして祈る
今日から待降節に入り、典礼暦もC年になりました。待降節とは、キリストの降臨を待ち望む季節です。主の降臨は、三種類あります。降誕と再臨、そして、その中間の来臨、この三つです。第一朗読では、救い主の降誕が知らされ、第二朗読と福音では、主の再臨が告げ知らされました。降誕と再臨との中間にある、もう一つの来臨については、主が他の箇所でこう語られました。「私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む」と(ヨハネ14・23)。御父と御子が来て、住んで下さるとき、聖霊も私達のところに来て住んで下さいます! 父と子と聖霊は常に一体ですから。
さて、主の三つの来臨に備える根本的な準備について、今日の福音の中で、主が言われました。「人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」 「いつも目を覚まして祈る」とは、神と隣人への愛の実践を人生の最高の目標に据えて(マルコ12・29-31参照)、いつも祈りながらこの目標の実現に努めることです。なぜなら、公審判のときに、隣人愛を実践したかどうかが問われるからです。
そして、目に見えない主への愛が深くなるための最善の方法は、目に見える兄弟・姉妹をますます深く愛して生きることです。これについて、聖ファウスティナは主から次のような実地教育を受けました。
「ある時、修室に戻ると、とても疲れていたので、修道服を脱ぎ始める前に暫く休まなければなりませんでした。そして、もう修道服を脱いだとき、シスターの一人がお湯を持ってきてほしいと願いました。疲れていましたが、すばやく服を着て、彼女が願ったお湯を持って行きました。修室から台所までかなりの距離があり、しかも泥が踝(くるぶし)の深さまでありましたが…。修室に戻ると、御聖体の入ったチボリウム(聖体容器)を見ました。そして、この声を聞きました。『このチボリウムを取って、聖櫃(せいひつ)まで持って行きなさい。最初ためらいましたが、近寄ってチボリウムに触れると、この言葉を聞きました。『あなたが私に近づくのと同じ愛をもって、一人一人のシスターに近づきなさい。彼女達のために行うことは何でも、それを私のために行っているのである。』一瞬後、独りでいることに気づきました」(No.285)。
天の父よ、私達が目に見える兄弟・姉妹を愛して生きるか生きないかが、とりもなおさずあなたの最愛の子、私達の主イエス・キリストを愛して生きるか生きないかだという事実を悟らせて下さい。