2021年8月8日 年間第19主日 B年
(Ⅰ列王19・4-8)、(エフェソ4・30~5・2)、(ヨハネ6・41-51)
天から降って来た生きたパン、命のパン
「私は天から降(くだ)って来たパンである。」この言葉を聞いたユダヤ人達は、イエスの人間的な出自(でどころ)を知っているので言いました。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『私は天から降って来た』などと言うのか。」このつぶやきに対する答えが、今日の福音です。主のお答えは二つの部分から成ります。◎(6・43-48)。◎(6・49-51)。
◎「つぶやき合うのはやめなさい」と言って、すぐに御自分の真の出自(でどころ)を明らかにされます。「私をお遣わしになった父が引き寄せて下さらなければ、誰も私のもとに来ることは出来ない。」イエスは全人類の救い主として、御父のもとから私達に遣わされた神の子です。そして、私達は御父から聖霊を通して教えて頂いて、イエスを『神の子、メシア』だ、と信じるようになりました。この啓示と福音を信じるとき、主は私達に神の命を与えて、終わりの日に復活させて下さいます。この事実を主は聖書に基づいて説明されました。
◎「預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる(イザヤ54・13)』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、私のもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのだ。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。私は命のパンである」(ヨハネ6・45-48)。
◎ 答えの後半部分で、主は何を語られたのでしょうか。「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」(6・49)。これは厳しいお言葉です。「死んでしまった」とは「滅んでしまった」*という意味です。【これ*については(ヘブライ3・16-19)を参照。】 それから御自分について言われます。「これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かすための私の肉のことである」(6・50-51)。
「私は天から降って来た生きたパンである」と言われます。「生きたパン」とは、「自分の中に命を持っていない普通のパンと違って、私は自分自身の中に人間の命と神の命とを持っているパンである」という意味です。この「生きたパン」である主イエスが、聖体の秘跡を通して、私達の心に来て下さいます! こうして、御自分の命を生きさせて、私達を神の独り子、イエス・キリストの似姿につくり変えて下さるのです! 私達は聖体拝領を通して何と偉大な恵みを頂いていることでしょうか!
以上の全てを要約して、主はシスターファウスティナに言われました。「見なさい、私はあなたと一つに結ばれるために、天の王座を後にした。あなたが見るものは小さい部分だけだが、早くも霊魂は愛で気が遠くなっている。あなたの心は、完全な栄光に包まれている私を見るとき、どんなに驚嘆することだろう。私はあなたに言いたい。永遠の命は、聖体拝領を通して、この地上で既に始まらねばならない、と。一つ一つの聖体拝領は、永遠にわたって神と一致し、交わることをますます可能にする」(『日記』、No.1810-1811)。
天の父よ、聖体拝領を通して、復活されたキリスト御自身が私達の内に永遠の命を養って下さっていることを悟らせて下さい。