2021年7月4日 年間第14主日 B年
(エゼキエル2・2-5)、(Ⅱコリント12・7-10)、(マルコ6・1-6)
神に従いたいという望みと信仰
神様は全能ですが、不信仰な人々に対しては全能の力を現すことがお出来になりません。そのことが今日の福音で強調されました。「そこ〔ナザレ〕では、ごくわずかの病人に手を置いて癒されただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがお出来にならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(マルコ6・5-6)。逆に先週の主日の福音では、ただ信じる信仰に応えて、主は全能の力を現し、12年間も出血病で苦しんでいた女性を癒し、死んでいた少女を生き返らせられました。
キリストの故郷のナザレの人々は、なぜ不信仰に陥ったのでしょうか。キリストについて人間的に判断したからです。彼らは、キリストの知恵とその手で行われる奇跡が実に素晴らしいものだと認めました。だが、その知恵と奇跡がどこから来るのかという点について、正しく判断することが出来ず、人間的な判断を下して言いました。「この人が授かった知恵とその手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹達は、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」
彼らが聖霊に照らされていたなら、キリストについて正しく判断することが出来たでしょう。だが、聖霊の照らしがなく、人間的な判断しか下せなかったので、キリストについて躓いてしまいました。
聖霊に照らされ、導かれてイエスを正しく判断出来るために、「神に従いたい」という望みがどうしても必要です。この望みがあるとき、神はその人に聖霊をお与えになり、聖霊がその人の中で働き、「ナザレのイエスが神の子・救い主だ」ということを悟らせられるのです。
このことをペトロが最高法院の大祭司や議員達に断言しました。
「私達の先祖の神は、あなた達が木につけて殺したイエスを復活させられました。神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、この方を導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられました。私達はこの事実の証人であり、また、神が御自分に従う人々にお与えになった聖霊も、このことを証ししておられます」と(使徒言行録5・30-32)。【「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(Ⅰコリント12・3)という御言葉も同様に重要です。】
キリストに関する使徒達の証しは水平的な証しです。人間である使徒から人間である私達への証しだらかです。この水平的な証しに、キリストに関する聖霊の証しが与えられるとき、その証しは垂直的だと言われます。神から人間のところへ降ってくるからです。この二種類の証しが、一人ひとりの人間の心の中で一致するとき、人はキリストを心から信じることが出来ます。ナザレの人々は、聖母とごく少数の人々を除いて、「神に従いたい」という誠実な望みを持っていませんでした。それで、聖霊の照らしも信仰もなかったのです。
天の父よ、私達が常に「あなたに従いたい」という望みを持つことによって聖霊の力強い照らしと導きを頂けますように。