2021年6月20日 年間第12主日 B年
(ヨブ38・1-11)、(Ⅱコリント5・14-17)、(マルコ4・35-41)
「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」
今日の福音のキーワードは、「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」という御言葉です。この鍵言葉についてご一緒に考え、祈りましょう。
先ず一つのエピソードを! 或る時、軽業師が摩天楼の屋上で曲芸をしました。小さい息子の両手を取って、爪先だけで自分の体を支えながらブランコに乗り、できるだけ遠く外に身を乗り出しました。もし、息子が下を見たら、めまいがするほどの高さだったでしょう。二人が下りて来たとき、或る人が、子供に怖くなかったかと尋ねました。すると、子供はこの質問に驚きながら答えました。「怖くなかった。パパの腕の中にいたんだモン!」このエピソードを語ってから、カンタラメッサ師は付け加えます。「信仰は、この信頼を私たちに与えてくれます」と(『キリストにおける生活』、213-214頁)。さて、今日の福音に戻りましょう。
主は、「神の国」について湖畔にいた「おびただしい群集」に舟の上から話し終わると、弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われました。それで、一行は群集を残して漕ぎ出しました。暫くすると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水浸しになり、今にも沈みそうになりました。しかし、主は舟の艫(とも)の方で枕をして眠っておられました。弟子たちは、突風と高波の中で舟が沈みそうなので、主を揺り起こして、叫びます。「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか。」
主が起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ、沈まれ」とお命じになると、風はやみ、湖はすっかり凪(なぎ)になりました。そして、これを見て驚嘆している弟子たちを厳しくお咎めになりました。「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか。」弟子たちは「まだ信じないのか」と咎められました。何を信じていなかったのでしょうか。
宇宙万物を創り、完全に支配しておられる「父である神」を信じていないということです。この事実が突風と高波のために「溺れて死んでしまう!」という恐怖に捕らえられている弟子たちと、枕をして眠っておられた主との対比から推測できます。冒頭のエピソードの子供は、父親がどんなに信頼できるかを体験的によく知っていたので、力強い父親の腕の中で安心しきっていました。主は、御自分が御父に対して持っておられるこの信頼を私たちにもお求めになります。信仰に由来する信頼を!
更に、主と御父とは完全に一体なので、主が共におられるとき、何を恐れることがあるでしょうか。キリストが「まだ信じないのか」と言われたとき、御父への信仰と同時に御自分への信仰も強く求められたに違いありません。
御父と御子への信仰と信頼について、使徒パウロは言いました。「もし神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか。私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。…誰が、キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。危険か。剣か。…私たちは、これら全てのことにおいて、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8・31-37)。
天の父よ、聖パウロがあなたと御子に対して抱いていた信仰と信頼を私たちにもお与え下さい。