2021年5月9日 復活節第6主日 B年
(使徒1・1-11)、(Ⅰヨハネ4・7-10)、(ヨハネ15・9-17)
死海のようではなく、ガリラヤ湖のように生きる
今日の福音の冒頭で、驚嘆すべきことが語られています。「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛してきた。」これは、「父が私を愛されたのと全く同じ愛をもって、私もあなたがたを愛してきた」という意味です。つまり、御父が御子を愛しておられる愛は限りなく深いものですが、その限りなく深い愛をもって、キリストは私たちを愛して下さっています。この愛に包まれて生きること以上の幸せは、他に決してありません。
そしてすぐにキリストは、この愛に留まる方法について語られました。「私が父の掟を守り、その愛に留まっているように、あなたがたも、私の掟を守るなら、私の愛に留まっていることになる。」キリストの掟を守ることがキリストの愛に留まる方法ですが、その掟について言われました。「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である。」
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。私はあなたがたを友と呼ぶ」と言われた主は、すぐその翌日に、十字架上で御自分の命を献げて下さいました。私たちのために十字架上で命を献げて下さった主キリストに倣って、私たちも兄弟・姉妹のために命までも献げようと努めること、これが主のお望みです。逆説的ですが、人間は、自分のために生きれば生きるほど、喜びは小さくなり、人々のために生きれば生きるほど、喜びは大きくなります。
さて、霊的に極めて重要な一つの事実があります。ヨルダン川の水は先ずガリラヤ湖に流入し、そこから流れ出た水は、更に川を下って死海に流入します。ガリラヤ湖は沢山の魚が住む、命に満ちた湖であるのに、死海は余りにも塩分濃度が高いために、一匹の魚もいない、文字通り死の海です。その違いは何処にあるのでしょうか。ガリラヤ湖が『ヨルダン川の水』を受けて、それを注ぎ出すのに、死海は川の水を受けるだけで、全然注ぎ出さないからです。〔死海の水面は海面下395mで、水はどこへも流れ出ず、太陽熱で水が蒸発するだけで、塩分濃度が高くなりすぎて、魚は住めないのです。〕私たちもガリラヤ湖のように聖霊という神の愛の水を受け取って〔ヨハネ7・38参照〕、それを周りの兄弟・姉妹に注ぎ出しましょう。そうすれば、命に満ちた者とされます(『聖霊とエウカリスチア』19-20頁参照)。
今日の福音の最後の箇所で、主は言われました。「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」そして、その二つの目的を言われます。「◎あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、◎私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである。」
◎「出かけて行って実を結び、その実が残る」とは、神を知らない人々に神の愛を実践して、その人々が神の愛に包まれ、永遠の命を生きるようになることです。その時、私たちは実を結んでいます。
◎「私〔キリスト〕の名によって御父に願うものは何でも与えられる」とは、《私たちがキリストと一致し、キリスト御自身によって御父に願うなら、それはキリスト御自身のお望みであるので、御父は私たちが願うものを何でもお与えになる》という意味です。
天の父よ、私たちがあなたの御子イエスと同じ愛をもって兄弟・姉妹を愛して生きることができるよう、私たちを助けて下さい。