2021年2月28日 四旬節第2主日 B年
(創世記22・1-18)、(ローマ8・31-34)、(マルコ9・2-10)
独り子を与えるほどの愛
「神はアブラハムを試された。」これが第一朗読の最初の言葉でした。この試みはアブラハムにとって非常につらかったに違いありません。神はこう命じられました。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」独り子イサクは、アブラハムが100歳、ずっと不妊であったサラが90歳のときに生まれた子供でした(創世記17・17参照)。そして、その子孫は空の星のようになると約束されていました(創世記15・5参照)。ところが、成人したそのイサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と、神が命じられたのです。
神がお命じになった場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとしました。そうする父親もそうされる息子も、神に従うべきだという、どんなに熱烈な心を持っていたことでしょう。これを見て、神は言われました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、私に献げることを惜しまなかった。」神は続けて言われました。「あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は、敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたが私の声に聞き従ったからだ。」
アブラハムと独り子イサクがしようとしたことを、天の御父とその御独り子は、私たちのために実際に行ってくださいました。これについて、使徒パウロは言います。「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さいました」と(ローマ5・8)。更にパウロは、今日の第二朗読で言います。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8・32)。
さて、今日の福音で、主の変容の出来事が朗読されました。これは、今考えたばかりの第一・第二朗読と、どのように関連するのでしょうか。キリストの十字架上の死は、弟子たちの躓きになりかねないものです。それで主は、御自分の死に躓かないようにと、御自分が神の子として持っている栄光を三人の主(おも)だった弟子たちに垣間見せて、彼らの信仰を堅固なものとしておかれたのです。
今日の御言葉の根本的なテーマは、神の私たちに対する愛です。キリストの言葉を用いて言えば、「神はその独り子を与えるほどに、世を愛された」(ヨハネ3・16)のです。この愛を深く悟らせていただき、愛に愛をもって応えるために、アブラハムのように神の言葉を守り、神に従う者となれますように!
天の父よ、私たちがあなたと御子からどんなに深く愛されているかを、聖霊によって教えて下さい。また、アブラハムのように、あなたの御声に聞き従うことができるようにして下さい。