2021年2月14日 年間第6主日 B年
(創世記3・16-19)、(Ⅰコリント10・31~11・1)、(マルコ1・40-45)
不従順と滅び、従順と永遠の命
聖書とは、“聖霊”が聖書記者を通して『人類の救い』について語る、神の言葉です。そして、主日の第一朗読と福音は互いに深い繋がりのある箇所が選ばれています。今日の場合はどうでしょうか。第一朗読は原罪に対する神様の判決で、この判決はあらゆる時代のすべての人に及ぶ「霊魂の死」でした【カトリック教会のカテキズムNo.403】。)
神様の判決の一つが、「塵にすぎないお前は、塵に返る」ということでした。つまり、人間の霊魂は滅び、肉体は死なねばならなくなりました。そして死と共に、あらゆる種類の悲惨と苦しみと悲しみがこの世に入って来ました【カトリック教会のカテキズムNo.396~409参照】。
しかし神様は、原罪に対する判決を下す直前に、救いの約束をお与えになっていました。悪魔にこう言われました。「お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に私は敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」(創世記3・15)。ここで言われる女とは聖母マリア、女の子孫とは救い主キリストです(カテキズムNo.411参照)。救いの約束はどのようにして実現されるのでしょうか。福音に眼を向けましょう。
今日の福音で、重い皮膚病を患っている人が、主の前に跪いて、「御心ならば、私を清くすることがお出来になります」と願うと、主は深く憐れみ、手を差し伸べてその人に触れ 〔つまり、その人の罪という汚れを引き受けるために彼に触れ〕、「私は望む、清くなれ」と言われました。すると、たちまち病気は去り、その人は清くなりました。
この出来事の中に、非常に重要な救いの根本原則 が語られています。私たちが誰でも主に、「御心ならば、私の罪を赦して、清くすることがお出来になります」と願いさえすれば、主は大喜びで、「私は望む。清くなれ」と言って、私の罪を完全に清めて、神の子として下さいます。信じる人を誰でも救うことが、天の御父の御心だからです。【「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。】
ですから、第一朗読と福音との関連は次のとおりです。私たちは原罪という重大な罪の赦しを受けずに死ねば、霊魂も体も永遠に滅びます。しかし、主キリストは十字架上の死によって罪の贖いを成し遂げ、神の命を与えて、神の子として永遠に生きさせたいと望んでおられます。そして、「この恵みを信仰によって受け取りなさい」と招き続けて下さっています。
アダムの不従順によって死が、キリストの従順によって永遠の命がもたらされたことについて、天の御父はシエナの聖女カタリナに語られました。以下、父である神の言葉。「アダムの不従順のもたらした死を人から除き去ろうとして、私の独り子を遣わした。そして、人祖の不従順によって全地に注がれた毒から人を救うため、独り子に完全な従順を命じた。だから私の子は、愛のとりことして、また、真に従順な者として、至聖な死・十字架の恥辱に満ちた死に進んで速やかに赴いた。そして、その至聖な死を通じて、私の子はあなたがたに命を与えたのである。」
天の父よ、キリストの従順によって救われた私達が、救い主のように神のお望みに従順でなければならないことを悟らせてください(ヘブライ5・9参照)。