2020年10月11日 年間第28主日A年
(イザヤ25・6-10)、(フィリピ4・12-20)、(マタイ22・1-14)
婚宴の譬えが語られました。天の御父は、御子キリストのために結婚の大宴会を催されます。王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせましたが、その人たちは、王の招きを無視して来ようとしませんでした。
そこでまた、別の家来たちを使いに出して、王自身の言葉を次のように伝えさせました。(以下、直訳)「さあ、私の食事を私が整えました。私の牛や肥えた家畜を屠り、すっかり用意ができました。婚宴においで下さい。」王様がじきじきに整えられた、この婚宴への招きとは何でしょうか。永遠の命への招きです。言い換えると、私たち一人ひとりが聖霊において御父や御子と『人格的な愛による一致と交わりを永遠に生きさせて頂き』、更に天国にいる全ての天使や聖人たちとも人格的な愛による一致と交わりを永遠に生きさせて頂くことへの招きです。
しかし、招かれていた人々はそれを無視して、一人は畑に、一人は商売に出かけます。つまり、永遠の命よりも、この地上の生活に精を出すほうがよいと考えるのです。他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまいました。そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いました。〔それが紀元70年のエルサレムの滅亡です(ルカ21・5-6参照)。〕招かれていた人々とは、神が御自分の民として選んでおかれたイスラエルの民です。
王は家来たちに言いました。「婚宴の用意は出来ているが、招いておいた者たちはふさわしくなかった。だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れてきなさい。」そこで、家来たちは、見かけた人を皆善人も悪人も集めて来たので、婚宴の広間は客でいっぱいになりました。こうして、異邦人であった私たちが、信じて洗礼を受けて礼服を頂き、婚宴の客とされました。客であるだけでなくキリストの花嫁とされるのです。これについて、カトリック教会のカテキズムは言います。「キリストの体の部分である各信者は、主とただ一つの霊となるために『婚約した』、キリストの花嫁です」と(No.796参照)。この花婿と花嫁について、聖ファウスティナは、「聖体拝領のための私の準備」という箇所で、自分の神秘体験をこう書いています。
「私は、花嫁が花婿の来るのを準備するように、あなたのおいでになるのを準備いたします。その方は私の花婿です……。その方は王の王、主の主です。その方が私の心という住まいに入られたとき、極めて深い畏敬の念で満たされたので、畏れのあまり気が遠くなり、その足元に倒れました。イエスは御自分の手を差し伸べて、傍に席を占めるのを慈しみ深くお許しになります。主は次のように言って安心させられます。『見なさい、私はあなたと一つに結ばれるために、天の王座を後にした。あなたが見るものは小さい部分だけだが、早くも魂は愛で気が遠くなっている。あなたの心は、完全な栄光に包まれている私を見るとき、どんなに驚嘆することだろう。』『私はあなたに言いたい、永遠の命は聖体拝領を通してここ地上で既に始まらねばならないと。一つ一つの聖体拝領は、永遠にわたって神と交わることをますます可能にする』」(No.1810-1811)。
天の父よ、あなた御自身がこの婚宴を整えて下さいました。これに与ることこそが、私たち人間の究極の目的であることを悟り、誰もこの招きを無視しませんように。