2023年3月19日 四旬節第4主日A年
(Ⅰサムエル16・1-13)、(エフェソ5・8-14)、(ヨハネ9・1-38)
日のあるうちに神の業を行う
生まれつき目の見えない人は、イエスのお言葉を聞いたとき、明るい希望の灯(ひ)が心にパッとともるのを感じたに違いありません。と言うのは、主がこう言われたからです。「この人の目が生まれつき見えないのは、本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)と。
彼が信頼と希望のうちにどんな神の業が行われるのかと待ち構えていると、主は、「地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に塗り*、シロアムの池に行って洗いなさい*」と言われました。これは霊的な意味で、彼がイエスに一緒について来て頂き、聖霊で目を洗うことを意味しています〔この記事の最後の注参照〕。彼がそのとおりにすると、見えるようになりました!
主は、この「神の業」を行う前に、「私たちは、私をお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言われました。「まだ日のあるうちに」とは、「主が恵みを与えて善を行えるように助けてくださるうちに」という意味です。この言葉に従って、生まれつき目の見えない人が、言われたとおりにすると、見えるようになりました! 肉眼が見えるようになっただけでなく、「世の光」であるキリストに照らされて、心の目も見えるようになり、メシアについて素晴らしい証をしました。
ファリサイ派の人々が、「イエスが目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあのイエスをどう思うのか」と尋ねたとき、彼は、「あの方は預言者です」と答えました。更にこうも言いました。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたメシアでなければ、何もお出来にならなかったはずです。」すると彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を会堂から追放しました。つまり、破門しました。
主は、破門された彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。彼が「それは誰のことですか」と尋ね、主が「あなたと話しているのが、その人だ」と答えられると、彼は、「主よ、信じます」と宣言して、キリストの弟子・キリストの兄弟とされました。「主よ、あなたを信じます」という信仰宣言は、恵みに助けられながら人が行うことの出来る最高の神の業です。霊的に死んでいた私たちが、主キリストへの信仰によって、罪を赦され、神の命を頂いて神の子とされ、天国で永遠に生きる者とされるのですから(ヨハネ6・29参照)。
天の父よ、私たちにもこの盲人と同じ心をお与えください。そして、主キリストへの信頼と希望のうちに恵みを受け入れ、その恵みに助けられて、日々、あなたの業を行うことができますように。
【注* 唾で土をこねたものはイエス・キリストを意味し、シロアムの池の水は聖霊を意味します。なぜなら、唾は言(みことば)の象りであり、土から人間が形づくられた(創2・7参照)ので、唾と土がこね合わされたものは、神であり人であるイエス・キリストを意味し、シロアムとは『遣わされた者』つまり、御父から遣わされた『神の子イエス』のことで、イエスは御自分を信じる人の内から生きた水(聖霊)が流れ出るようになり(ヨハネ7・37-39参照)、「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・14)と言っておられるからです。(四旬節第3主日A年参照)】